じじぃの「カオス・地球_237_関眞興・ドイツ史・宗教改革・ルター」

ルタ―聖書(1534年)


ルター聖書

ウィキペディアWikipedia) より
ルター聖書(独:Lutherbibel)は、マルティン・ルターによるヘブライ語及び古典ギリシア語からの旧約聖書新約聖書のドイツ語訳である。
まず、ルターは独力で新約聖書の翻訳を行ったが、旧約聖書の翻訳に際してはカスパール・アクィラら複数の専門家から助言を受けた。新約聖書の翻訳に於いては特にヴルガータの影響が強く感じられる。『翻訳に関する書簡』の中でルターは、自分の翻訳原則についての釈明を行っている。

ルターは自身の翻訳の広範囲での普及を通じて初期新高ドイツ語の成長に対して一定の影響力を有したが、この影響力は長きに渡って過大評価されてきたものである。ヤーコプ・グリムは、「新高ドイツ語は実際にプロテスタント方言と見做され得る」と判断を下した。
ルターが純粋に新しく作り出した諸語や、ルター聖書によってルターの東部中ドイツ語という発祥の地を越えて超域的な意味を与えられた諸語についてであれば、このことは妥当である。

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一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ

1 始まりはフランク王国

2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ
6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

1 始まりはフランク王国 より

ドイツの起源・東フランク王国
カール大帝が814年に死亡し、その孫の代になるとフランク王国で権力争いが起こります。843年、西・中部・東に3分割されました。

やがて、中部フランク王国の領域は現在のイタリア半島の北部のみに縮小されます。「西ローマ皇帝」の地位は、東フランク王国が引き継いでいきました。

のちに東フランク王国が「ドイツ王国」となり、中部フランク王国南部では有力な貴族がたがいに王を名乗って小さな王国が乱立します。
西ローマ皇帝は、10世紀ごろからドイツ国王とイタリア国王を兼任するようになりました。

ところで、イタリアは?
神聖ローマ帝国のうち、現在のドイツにあたる地域の歩みを紹介しました。神聖ローマ帝国には、現在のイタリアもふくまれます。では、ローマ教皇との関係はどうだったのでしょうか?

皇帝と教皇は、双方が相手より上の立場であると主張して対立しました。具体的には聖職者の任命権をどちらが持つのかを争います。1077年ハインリッヒ4世が教皇グレゴリウス7世に頭を下げる事件もありました(カノッサの屈辱)。

ところで、皇帝には聖職者の任命権とあわせて、ライン川を経由する南北の商業ルートを確保したいという思惑がありました。ハインリッヒ4世の曾孫(ひまご)でその風貌から「赤ひげ」と呼ばれたフリードリッヒ1世は、北イタリアの有力者と戦い、イタリアを苦しめました。

フリードリッヒ1世の孫フリードリッヒ2世は、幼少のころに絶頂期の教皇インノケンティウス3世の支援を受けたこともあり、生涯のほとんどをシチリア島で過ごしました。フリードリッヒ2世は英明な君主でしたが、イタリア統一を夢見てドイツには戻らなかったため、ドイツはさらにバラバラになっていきました。

その後、神聖ローマ皇帝位を継承するハプスブルグ家も、協会を支配下に置くためのイタリア政策を始めます。スペインやフランスもイタリアへの進出を狙い、15世紀末から16世紀半ばまではイタリアをめぐる争いが続きました。

ルネサンス始まる
十字軍や北イタリア商人の活動により、14世紀には神聖ローマ帝国にも東ローマ帝国からヘレニズム文化がもたらされました。ヘレニズムとは、「ギリシャ風」という意味で、キリストが誕生する前のギリシャやローマの文化を指します。ヘレニズムがヨーロッパで注目されたことを「ルネサンス(フランス語で「再生」の意味)」といいます。

キリスト教において神の権威は絶対であり、人間をふくめた世界の創造者です。これに対し、ヘレニズムは人間の自由や個性を尊重する風潮がありました。ヘレニズムが広がっていくと、人々は生きる楽しみを求める気持ちが大きくなっていきました。こうした考えを人文主義ヒューマニズム)といいます。

ルネサンスの代表的な建築物が、現在もバチカン市国にあるサン・ピエトロ寺院です。古代ローマの時代の建物がすでにボロボロになっていたことから、教皇の要望により建て替えられました。

ところが、このサン・ピエトロ寺院の建築資金が、時代を動かす大騒動に発展していきます。教皇は、資金を集めるために贖宥状(しょくゆうじょう、罪が消えるお札)を販売しました。キリスト教徒に「あなたの犯した罪を、お札を買うことでチャラにしてあげますよ」というわけです。

これに怒ったのが、ザクセン地方で生まれた神学者マルティン・ルターでした。1517年、ルターは「95か条の論題」を発表します。ルターは「贖宥状は無意味であり、神の救済はお金を寄付するなどの行為でなく、神を信じることで得られるものだ」と、聖書に書かれていることに基づいて主張しました。

その結果、ルターは教皇から破門され、神聖ローマ皇帝のカール5世からは撤回せよと命じられます。圧力に屈しなかったルターは、皇帝と対立していたザクセン選帝候に保護されます。そして聖書をドイツ語に翻訳して、一般民衆にも読めるようにしました。

加えて、このころに活版印刷が実用化され、ドイツ語の聖書やルターの教えをまとめた書物が広く出回りました。また、ルターは翻訳する際、当時多くの法源があったドイツ語のうちザクセンの官庁で使われた言葉を使いました。これがドイツ語の基礎になったと言われます。

このようにルターの主張がドイツ全域で支持を集める一方で、ローマ教皇を支持する諸侯もいました。両者の対立が激しさを増し、「宗教改革」という運動へと発展していくのです。

皇帝カール5世の苦悩
宗教改革のころ、神聖ローマ帝国の皇帝はカール5世でした。スペイン王でもあったカール5世は、イタリアの領有をめぐって隣国フランスと対立します。南のオスマン帝国がフランスと組んで攻め寄せて、首都ウィーンを包囲されるというピンチを迎えたこともありました(大寒波によってオスマン軍は撤退)。

対外的にいそがしいせいで、カール5世はルター派の領主の顔色をうかがった政策をとらざるを得ない状況でした。その結果、ルター派はさらに拡大していきます。

1529年に行なわれた帝国議会では、皇帝がルター派の布教を禁止する宣言を出します。これにルター派の領主が抗議(プロテスト)しました。ここから、ルター派は「プロテスタント」と呼ばれるようになります。

その後もカール5世(カトリック)とルター派プロテスタント)の対立は続きました。1546~47年には、両者の間でシュマルカルデン戦争が起こります。

この戦争はカール5世の勝利でいったん終わりますが、プロテスタントの領主が行動を制限されることに反発し、さらに戦闘が続きました。決着はつかず、イタリアをめぐってフランスと戦争をしていたカール5世は、領邦君主たちに呼びかけ、「アウクスブルクの和議」が結ばれました。

この和議において、「領主が信仰する宗教が、その領地で信仰される宗教となる」という合意がなされました。個人の信仰の自由は認められず、領邦や都市ごとにカトリックプロテスタントルター派)のどちらかを選ぶ原則が生まれます。