じじぃの「歴史・思想_284_現代ドイツ・宗教改革者・ルター」

Wartburg Castle ? Home to Luther's Bible | DW English

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OS5SdGhNR-U

Martin Luther Translating the Bible (Eugene Siberd, 1898).

『現代ドイツを知るための67章【第3版】』

浜本隆志、高橋憲/編著 明石書店 2020年発行

ドイツ文化の源流 ヴァルトブルグ城――中世の「歌合戦」とルターゆかりの地 より

世界遺産であるヴァルトブルグ城見学は、ふつうアイゼナハの町を拠点にする。木組の家並みが美しい、牧歌的な田舎町は今日、人口4万3000人、緑深いチューリンゲンの森の北西部のすそ野にある。中世には通商と織物業で繁栄した古い歴史をもつ。またマルティン・ルター(1483~1546)が学び、大作曲家ヨハン・セバスチャン。バッハ(1685~1750)生誕の町として、「バッハハウス」には見学者が絶えない。町の中心のマルクト広場には、ひと際高い塔をいただく、後期ゴシック様式の聖ゲオルク協会があるが、ここはルターが説教をおこない、バッハが洗礼を受けた歴史的由緒のある教会だ。
小高い丘にそびえる美しい中世の古城ヴァルトブルグ城は、幾度となくドイツの歴史、文化の重要な舞台となった。
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ワーグナーはオペラ台本の作成にあたっては、『ヴァルトブルグ城の歌合戦』に関するルートヴィヒ・ウーラント(1786~1862)の『ドイツ古民謡集』や、前期ロマン派のルートヴィヒ・ティーク(1773~1853)の『忠実なるエックハルトとタンネンホイザー』などの作品を参考にしたといわれている。
ワーグナーを通じてであるが、ヴァルトブルグ城は、もっとも美しいといわれるノイシュヴァンシュタイン城とかかわりをもつ。ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、この城をつくった経緯は有名だが、ヴァルトブルグ城を手本にしたという。とりわけ歌人の祝宴の広間は、『タンネンホイザー』の部隊でもあったヴァルトブルグ城のそれを摸倣したものであり、また外観も、一部ある方向から見ると似ている。
しかし何といっても、ヴァルトブルグ城ともっとも縁が深いのは、宗教改革者・マルティン・ルターである。ローマ教皇に波紋され、また皇帝から帝国追放の見になり、1521年から名を変え、姿を変え、身を隠してこの城に移り住んだ。実のところ、ザクセン選帝候フリードリヒ3世がかれをかくまったことは周知のことである。
ルターはユンカー・イェルクと名乗ってこの城に10ヵ月間立て籠もり、『新約聖書』をギリシャ原点に戻り、ドイツ語訳を完成させた。ラテン語で読まれていた『聖書』は、聖職者たちの都合のように解釈されていたという事情もある。後にルターは『旧約聖書』を1534年までの歳月を費やしてヘブライ語アラム語からドイツ語に訳している。ドイツ語訳に執念を燃やしたのは、かれはキリスト教の神髄は『聖書』の原点に立ち返ることだと確信していたからだ。
城内にルターが使用していた部屋が500年後の現在でも、当時のままのかたちで見ることができるが、机と椅子と暖炉だけという、質素な室内風景である。悪魔の存在をなかば信じていたルターであったが、ある夜、『聖書』の翻訳に没頭していると、悪魔が姿をあらわし、うるさくつきまとった。そのためルターはインク壺を悪魔に向かって投げつけたというが、そのとき壁に付いたとされる染みの痕跡は、現在、削り取られたためか残っていない。
その後ルターは、1522年の春、ヴィッテンベルグへと戻り、友人フィリップ・メランヒトン(1497~1560)の助けを得て、『聖書』翻訳や数多くの論文、意見書を仕上げた。ヴァルトブルグ城は、ルターの偉業により、その名を構成にとどめることになった。
さて、ヴァルトブルグ城は、ドイツ近代史においても大きな役割を晴らした。1815年、イェーナ大学で、学生組合は、「ヴルシュンシャフト」が結成されたが、1827年19月18日から、第1回の「ヴァルトブルグ祭」が開催された。これはロシア・プロイセン同盟軍がナポレオン軍だ勝利した。「ライプツィヒ諸国民の戦い」の4周年を記念し、さらに宗教改革300周年を祝うものであった。
この祭りにはドイツの大学の全学生8000人のうち、約500の人が参集したという。「ヴァルトブルグ祭」は、ナポレオン戦争後のウィーンはbb々体制に抗し、議会の設立。憲法制定そして統一されたドイツ人の国民国家を求める自由主義運動の烽火(ほうか)となった。ただしヴァルトブルグ祭の運動には、もう1つナショナリズム的な特徴もあった。
この使用された黒。赤、金の3職旗は、後にドイツ帝国の国旗となった。第2回目のヴァルトブルグ祭」は、1848年のフランス2月革命に勇気づけられ、ドイツ各都市でも支配者でも支配者に対して民衆が蜂起した。「3月革命」に呼応して催した。
ヴァルトブルグ城の文化は、ゲーテやその主君カール・アウグスト公にも支援さえ、ヴァイマルとも使いかかわりがあった。1999年、ヴァルトブルグ城は世界文化遺産となり、今日、チューリンゲンの観光のハイライトになっているのを、ドイツ文化の源流ともいうべき長い歴史をもつからである。