じじぃの「科学・芸術_835_オーストリア・バーベンベルク家」

VOM WERDEN EINES LANDES - DIE BABENBERGER

動画 YouTube
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ドナウ川とメルクの修道院

オーストリアの歴史』

リチャード・リケット/著、青山孝徳/訳 成文社 1995年発行

ケルト人、ローマ人、バーベンベルク家 より

400年以降、北方異民族の絶え間ない圧迫の結果、ローマ人は徐々にドナウ地域から後退し、488年には撤退を完了した。西ローマ帝国が滅びて12年目だった。撤廃後の空白はすぐにフン族が埋めることになり、東方からパンノ二アになだれ込んだ。しかしそのフン族は、「神の災い」と呼ばれるアッティラ王の死を機に引き上げていった。それに続いて、スラブ、アヴァールマジャール人が東から、チュートン人が北から、そしてバユヴァル人が西から入り込んで混乱を極めた。皆、ローマの遺産を手に入れることを望んだ。だが、この騒乱・無秩序にもかかわらず、オーストリア・初期キリスト教を記念する建物が2つ建てられた。聖ループレヒトの設けた、ザルツブルクの聖ペーター教会にあるベネディクト派修道院(700年頃)と、ウィーンの聖ループレヒト教会(740年頃)である。
キリスト教と、南ドイツのバユヴァル人が、西部でその地歩を固めたあと、ゆっくりドナウ川に沿って東へ進んでいった。この進出は、フランク王国が、カール大帝という威風堂々とした指導者のもとに、ついにその姿を現わすまで続いた。
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976年は、オーストリア史のなかで画期的な年である。この年、神聖ローマ帝国のオットー2世は、バーベンデルグ家のレーオポルド[1世]に対し、バイエルン[バヴァルア]の反乱鎮圧に功ありとして、南東部の領土を与え、辺境伯に任じた。バーベンデルグ家は、その後1246年まで、270年間にわたってオーストリアを支配した。バーベンデルグの居城は、最初ドナウのバァハウにあったが、ベッヒラーンからメルクへ、さらにトゥルンからクロスターノイブルクへと、ゆっくり東に進んでいった。メルクでは、バーベンデルグ家の2代目、ハインリッヒ1世(在位994~1018)が修道院を建造した。伝説によれば、「敬虔公」と呼ばれるレーオポルト3世(在位1095~1136、バーベンデルグ家という優れた一族の中でも、おそらく特に優れた人物と思われる)が、今日レオポルトベルグの「アム・ホープ」に居城をかまえたのは、ハインリッヒ2世(在位1141~77)だった。このハインリッヒ2世は、「神よ助けたまえ公」のあだ名をもつ。というのは、彼がこの言葉を好み、よく口にしたからである(ウィーンのシュテファンス・プラッツから伸びる通りの1つは、彼にちなんで、今でも「神よ助けたまえ」と呼ばれる)。1156年、「オーストリア」は、神聖ローマ皇帝、フリードリヒ・バルバロッサから、バイエルンに対する領有権放棄の見返りとして、神聖ローマ帝国内の世襲公領という特別の地位を認められた。ハインリッヒ2世の時のことである。
バーベンデルグ家の時代には、大変な繁栄がみられた。この一族は、賢明で先見の明にあふれた支配者だったように思われる。領地内の天然資源、特に金、銀、塩を採掘するとともに、宗教にも注意を怠らなかった。当時創建された壮大な修道院には、メルク(1000年)、ゲットヴァイク(1074年)、クロスターノイブルグ(1114年)、ハイリゲンクロイツ(1135年)、シュタイアマルクのアドモンド(1074年)、ケルンテンのミルシュタット(1070年)がある。バーベンデルグ家はまた、東と北からの急襲に備えて、一連の堅固な白や防御の砦を築いた。1137年には、ウィーン自体が要塞都市となり、10年後には、古いローマ時代のヴィンドボナ南東角の外側で、聖シュテファンにささげる、ロマネスク等式のバジリカ教会を建設する作業が始まった。この教会が形をなすにつれて、新しい市街、それも主として商業を営む区域が出現した。そこにはバーベンデルグ家の急成長をあてこむ商人が住んだ。彼らは、バーベンデルグ家の領土の繁栄が、確固とした支配と、オーストリア史にその後も見られる巧妙な婚姻によるものであることをよく知っていた。

バーベンデルグ家が、後の「オーストリア」を形成したと言っても間違いではない。

神聖ローマ皇帝が作成した文書に初めて「オスタリチ」という語が現われるのも、バーベンデルグ家の治世(996年)のことである。