じじぃの「人の死にざま_1541_ヨハネ・パウロ1世(ローマ教皇)」

Conspiracy Theories: The Mysterious Death of Pope John Paul I Part 1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r1d1f1KjDCQ
ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇) ウィキペディアWikipedia)より
ヨハネ・パウロ1世(伊: Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)はローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の司祭。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用。宗教事業協会の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。

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『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
教皇ヨハネ・パウロ1世の死後に起こった「ヴァチカン・スキャンダル」 (一部抜粋しています)
いまからおよそ40年前、ローマ教皇がわずか33日という在位期間で急死するという事件が起こっていた。
急逝した教皇とは、ヨハネ・パウロ1世のことである。彼がローマ教皇に就いたのは1978年8月26日のことで、翌月の9月28日の早朝に死亡しているのが発見されたのだった。
ところが、ヨハネ・パウロ1世の死に関しては、その直後から大いなる疑問が呈されることとなる。つまり、「教皇は暗殺された」とする推測である。
実はヨハネ・パウロ1世はその飾らない性格と穏和な表情から「微笑みの教皇」と称され、清廉潔白の性格の持ち主としても知られていた。
この教皇が在位後すぐに取り組もうとしていたのが、枢機卿や司祭の人事異動だった。というのも、この人事異動のリストに挙げられていた枢機卿や司教は秘密結社・フリーメーソンと何らかの関係を持つ人物で、不正な金銭の流れを断ち切るために教皇は人事異動を強行しようとしていたようなのだ。
その教会の企みを事前に察知していた人物がヴァチカンの国務長官・ヴィヨ枢機卿で、彼もまたフリーメーソンの会員および中心人物であった。
教皇の死因は心筋梗塞であるとされたが、奇妙なのは司法解剖が行われなかったことである。確かに毒物を飲ませて殺害させたのなら司法解剖は避けなければならないことであろう。
また、さらに不思議なのは、教皇の遺体を最初に発見した秘書からの通報によってヴィヨ枢機卿が現場に駆けつけたのが午前5時であるにもかかわらず、ヴァチカンからの葬儀社に到達したのも午前5時であったということ。つまり、葬儀社は午前5時よりも前に教皇の死を知らされていたということになるのだ。
ヨハネ・パウロ1世の急死は謎を呼ぶばかりで、一説によれば、教皇の急死から半年後にあの世へ旅立ったヴィヨ枢機卿が死ぬ間際に「私のようにならないようにと、後任の者に伝えてください。神は私に地獄を見せました。そしてそこに、私は行こうとしています」と修道女に言い残したといい、また、別のある枢機卿は1981年に教皇と同じく心筋梗塞でこの世を去っている。彼の場合は、フリーメーソンを抜けようとしていたことに対する報復であるとも噂されている。
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また、ヴァチカンの資金管理を行う銀行の頭取であったロベルト・カルヴィという男は、1982年6月、ロンドンのテムズ川に架かる橋で首を吊った状態で発見された。当初は自殺されたとされたが、その後暗殺されたと認定されている。