じじぃの「カオス・地球_240_関眞興・ドイツ史・ドイツ連邦の誕生」

七年戦争

動画 YouTube
1756年から1763年までの7年間、シュレジエンの領有をめぐって行われたオーストリアプロイセンとの戦争。
https://www.youtube.com/watch?v=sMiZL0fA6KE

ウィーン会議後のドイツ


楽曲紹介「バイエルン分列行進曲(Bayerischer Defiliermarsch)」

●ドイツの覇者・プロイセン
長らくドイツは領邦と呼ばれる多くの小国に分かれていました。
領邦とは、各地の有力諸侯が作ったミニ国家のことです。最盛期には300か国ほどありましたが、19世紀には20か国ほどに淘汰されました。領邦の中でも北方のプロイセン王国軍国主義をとり、成長著しく領土も最大でした。次いで大きかったのは南方のバイエルン王国でした。

これら領邦国家とは別に、ドイツ人の国としてはオーストリア帝国もありました。オーストリア帝国は名門ハプスブルク家を戴く大国です。
19世紀後半になると、ドイツ統一の動きが起こりました。それはオーストリアを除外しプロイセンを中心としてドイツを統一しようとするものでしたので、 オーストリアプロイセンの間で戦争になってしまいました。これが1866年のプロシア戦争(普墺戦争)です。
https://bswe.jp/?p=307

ウェストファリア条約―その実像と神話

明石 欽司【著】 慶應義塾大学出版会
近代国際法、近代欧州国際関係の原点とされるウェストファリア条約。その実態の詳細な提示を通じてウェストファリア条約それ自体についての我々の理解をより正確なものとし、近代国家や近代国家系の形成過程、そして近代国際法の形成過程を問い直す世界水準の研究。

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一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン

3 動乱のドイツ連邦

4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ
6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

2 オーストリアプロイセン より

神聖ローマ帝国とは何だったのか
ナポレオンによって滅ばされた神聖ローマ帝国とは、結局何だったのでしょうか。

まず、ヨーロッパの人々にとって古代ローマ帝国とは、古きよき時代の大国でした。その絵指針を継承する東ローマ帝国も尊敬に値するものでした。

ところが、14~15世紀に有力諸侯(領主)が群立するころには、国のイメージは変っていました。彼らは、皇帝の権威こそ認めますが、引きずりおろしてやろうという野心を持っていたのです。

30年戦争を終わらせたウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われます。皇帝の権威が意味をなさなくなったとはいえ、その後も100年以上、神聖ローマ帝国は続きます。「ローマ」の名は、それだけの価値があったのです。

ナポレオンにとどめをされ、そのナポレオンが消えたあと、ヨーロッパの再編成とともにドイツ人を自覚する人々によって新しい国が建設されます。

3 動乱のドイツ連邦 より

「ドイツ」誕生!
ウィーン議定書によって、フランスやスペインで倒された王政は復活することになりました。しかし、神聖ローマ帝国は復活できませんでした。というのも、ナポレオンに占領されたせいで中小の領邦がなくなってしまい、元に戻すことが現実的に不可能だったからです。そこで新しく「ドイツ連邦」がつくられました。1815年6月8日、ようやく国の名前が「ドイツ」になったのです。

ドイツ連邦は35の君主制と4つの自由市(君主はいないが自治権を持つ都市で構成されました。君主国には、オーストリア帝国プロイセンザクセンハノーファーバイエルン、ヴュルテンベルグの5つの王国のほか、大公国、公国、侯国がありました。自由市は、ハンブルクリューベックブレーメン、フランクフルトです。

神聖ローマ帝国では、形式的とはいえ、皇帝が選ばれていたオーストリアがもっとも地位が高いとされていました。ドイツ連邦においても、連邦議会の議長国はオーストリアでした。

連邦議会では、ドイツ全体の安全保障などにかかわる問題などが話し合われ、人口などに応じて1~4票の議決権がそれぞれの君主国・自由市に認められました。関税や軍隊などは、それぞれで決めることができました。

この「ドイツ連邦」はゆるやかな連合体であり、統一国家というよりは「ドイツ連合」「ドイツ同盟」のような見方をされることもあります。

ウィーン議定書によって、ドイツ連邦の領土も決まりました。まず、ナポレオンが占領していたライン川までの地域が返還されました。オーストリアは、領有していたベルギーなどをふくむ南部ネーデルランドをオランダに譲(ゆず)る代わりに、北イタリアのロンバディアとヴェネツィアを獲得しました。

連邦内でもプロイセンは、ザクセンの一部で工業などが進んでいたラインラント(ライン川左岸)、西ポンメルンなどを獲得します。

こうして、オーストリアプロイセンが、連邦内で大きな力を持つようになりました。

鉄道ができた!
大きな工場が建設され、重工業が発展すると鉄道が必要になります。1835年、バイエルン地方のニュルンベルクフュルト間に、ドイツで最初の鉄道が誕生しました。

19世紀半ばには、路線の合計の長さが4300キロメートルとなり、アメリカ、イギリスに続く世界第3位の鉄道大国となりました。

鉄道ができたころはイギリス製のレールや機関車を輸入していましたが、自国で生産できるようになると、鉄鋼業や鉱山業がさらに発展していきます。関連するガラスや木材の生産・加工もさかんになりました。

鉄道ができたことで、ドイツ連邦は一体感を強めました。まだ政治的にはバラバラな状態でしたが、国どうしの結びつきが強くなると、ドイツ人の意識は変わりました。経済発展と鉄道により、「ドイツは1つ」という気持ちが強くなっていったのです。