じじぃの「カオス・地球_241_関眞興・ドイツ史・鉄血宰相・ビスマルク」

岩倉使節団が世界で目の当たりにしたものとは?ビスマルクの衝撃の教え

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=3SYcjAVSpCw

オットー・フォン・ビスマルク

ウィキペディアWikipedia) より
オットー・フォン・ビスマルクは、プロイセン王国首相、北ドイツ連邦首相(在職1867年 - 1871年)、ドイツ帝国宰相(在職1871年 - 1890年)を歴任した。ドイツ帝国の初代宰相を務めたドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相」の異名を持つ。

岩倉使節団との交流】
明治6年1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団ビスマルクから夕食会に招かれた。岩倉具視の秘書であった多田好問が会見の様子を報告した。

その席上ビスマルク
「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない」、
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう」、
「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私は小国に生まれ、その実態を知り尽くしているのでその事情がよく分かる。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにあるのだ。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である」、
「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう」と語った。

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一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン

3 動乱のドイツ連邦

4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ
6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

2 オーストリアプロイセン より

神聖ローマ帝国とは何だったのか
ナポレオンによって滅ばされた神聖ローマ帝国とは、結局何だったのでしょうか。

まず、ヨーロッパの人々にとって古代ローマ帝国とは、古きよき時代の大国でした。その絵指針を継承する東ローマ帝国も尊敬に値するものでした。

ところが、14~15世紀に有力諸侯(領主)が群立するころには、国のイメージは変っていました。彼らは、皇帝の権威こそ認めますが、引きずりおろしてやろうという野心を持っていたのです。

30年戦争を終わらせたウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われます。皇帝の権威が意味をなさなくなったとはいえ、その後も100年以上、神聖ローマ帝国は続きます。「ローマ」の名は、それだけの価値があったのです。

ナポレオンにとどめをされ、そのナポレオンが消えたあと、ヨーロッパの再編成とともにドイツ人を自覚する人々によって新しい国が建設されます。

3 動乱のドイツ連邦 より

革命失敗
統一国家の建設をめぐる動きは、革命の混乱のさなかにスタートしました。フランクフルトに連邦の各国の議員が集まり、国民議会が開かれたのです。

しかし、どのような国家にするかという考え方の違いだけでなく、複数の民族をどうまとめていくかの問題もあり、政治体制を決められませんでした。
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結局、この3月革命は失敗に終わります。失敗の原因は、市民どうしに対立があったことや、革命の目的が広く理解されなかったことでした。

なお、オーストリアのようなドイツ人の支配下に別の民族がある地域では、彼らが独立の動きを示しましたが、最終的にすべて鎮圧されました。

鉄血宰相、登場!
革命が失敗したあと、ドイツ連邦の立て直しが行なわれました。プロイセンを中心に新憲法が作成されることになり、立憲君主制としての新しい国家体制が模索されました。

しかし、草案で出版物への検問が強化されることがわかると、自由を求める勢力が反発しました。発現力がやや衰えたオーストリアや一部の国が、プロイセンを中心とした憲法に反対しました。

軍事力を強化していたプロイセンが中心となることを危惧した外国からも、反対の声があがりました。逆風が吹いたことで、プロイセンは計画をいったん撤回します。

その後、オーストリアの失敗が事態を動かします。1853年のクリミア戦争に参戦したオーストリアは領土を獲得できなかったばかりか、1859年のイタリア統一戦争で一部の領土を譲るはめになりました。連邦内では、「オーストリアはもうダメだ」という空気が広がり、「やはりプロイセンを中心に統一したほうがよいのではないか」という声が大きくなっていったのです。

同じころ、ドイツ統一を成し遂げようとする人物が登場しました。オットー・フォン・ビスマルクです。プロイセンでは1861年、新しい国王ヴィルヘルム1世が即位しました。当時のプロイセン議会では、若手を中心とする自由主義勢力が議席を増して、旧主流派の保守勢力は劣勢でした。

保守勢力に支えられて国王となったヴィルヘルム1世は、事態を打開すべくぱり駐在大使のビスマルクを呼び戻し、宰相に任命します。ビスマルクは、君主を擁護する超保守派の政治家だったからです。

就任間もない演説で、ビスマルクは次にように方針を表明します。

「重要問題(国の統一)は、演説や多数決で解決されるのではなく、鉄と血で解決される」――つまり、国家の統一にあたっては軍事行動を行うと宣言したのです。この演説以降、ビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれました。

変化を嫌い、現状維持をはかるビスマルクでも、統一は避けられないと考えていました。まずはオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする基本方針を立てます。

本人は「国民」を利用することは考えても、政治の実権を国民に渡す(共和制にする)という発想はいっさい持っていませんでした。

フランスへの言いがかり
ドイツ統一の仕上げは、世論をまとめることでした。そのためビスマルクを利用したのはフランスです。チャンスはわりと速く訪れました。
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まもなく両国は開戦。セダンの戦いで勝利したドイツ軍(バイエルンなども参加)は、フランスが提唱した和平交渉に応じず、アルザス・ロレーヌ地方(両国の国境に面した地域)を占領。ナポレオン3世を捕(と)らえ、新たに誕生した政府の講和交渉にも応じずパリをせめて翌年開場させました。

ビスマルクは、フランス政府と仮条約を結び、賠償金を支払われることと、アルザス・ロレーヌを譲ることを認めさせました。

勝利の興奮さめやらぬまま1871年1月18日、フランスのヴェルサイユ宮殿において、ドイツ帝国の成立が宣言されました。このドイツ帝国には、バイエルンなど北ドイツ連邦に加入しなかった国も参加しました。

ビスマルクは、バイエルンに関しては気をつかうそぶりを見せ、一部で特別な権利を認めました。

またバイエルン国王のルートヴィヒ2世に王城の建設資金を与え、その見返りとして、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に推挙させたのです。ついにドイツは統一されました。