黒い瞳の伯爵夫人・・・クーデン・ホーフ光子
動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=HmA1aoqN9sI
クーデンホーフ光子と7人の子どもたち
EUの親の親-クーデンホーフ光子
2023年8月28日 note
クーデンホーフ光子とは明治時代に商家の娘からオーストリアの伯爵夫人になった黒い髪のシンデレラ・ガールである。
クーデンホーフ家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、クーデンホーフの一族は極東アジアからきた東洋人で仏教徒でもあった光子を奇異の目で見た。夫の家はハプスブルクに近い名家である。当然、貴族社会から反発を受ける。
32歳の光子には2歳から13歳まで7人の子供(4男3女)が残された。遺言状には広大な領地と資産の全財産の管理、子供の後見人もすべて光子に託す、とあった。
その後、オーストリアはドイツに併合され、次男・リヒャルトが汎ヨーロッパの思想でドイツから犯罪者扱いを受けていたが、光子は日本政府に守られた。
https://note.com/jin2186/n/nc08efcd0ccb5
神聖ローマ帝国
世界史の窓 より
神聖ローマ帝国の始まりは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などの撃退に成功したことから、ローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられたオットーの戴冠にあるとされているが、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは12世紀のことである。
この国家は、便宜上、962年のオットーの即位に始まる中世ヨーロッパの国家を指しているが、実体はドイツ王がその皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。しかし最盛期の範囲はイギリス・フランスを除く西ヨーロッパに広がり、ローマ教皇に対抗する世俗の権力の頂点にあって中世から近世にいたる重要な政治的存在であった。
16世紀にハプスブルク家が皇帝位を独占して最盛期を迎えハプスブルク帝国ともいわれる。しかし、宗教改革、フランスとのイタリア戦争、オスマン帝国の侵攻などが続き、17世紀の30年戦争以降はその支配権は実質を失った。その神聖ローマ皇帝位はオーストリア=ハプスブルク家が継承してその後も続き、ナポレオン戦争で敗れて1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろした。
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一冊でわかるドイツ史
【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
『一冊でわかるドイツ史』
関眞興/著 河出書房新社 2019年発行
ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。
2 オーストリアとプロイセン より
帝国の中心はオーストリア
西暦100年ごろ、東ヨーロッパを流れるドナウ川の上流まで領土を広げたローマ帝国は、拠点としてヴィンドボナという都市を建設しました。これが、現在のオーストリアの首都ウィーンの始まりです。ウィーンからドナウ川を少し下ったところには、現在のハンガリーの首都ブダペストがあります。
今の世界地図を見ると、ドイツの東、オーストリアとハンガリーの北には、チェコとスロバキアがあります。かつて、この2つの国は「チェコスロバキア」という1つの国家でした(1993年に民族対立によって分離)。中世のオーストリアは、ハンガリーやチェコスロバキアと友好関係にあり、とくにチェコは「ボヘミア」と呼ばれて、神聖ローマ帝国を構成する主要な国の1つでした。
オーストリアという国名は、東辺境伯(へんきょうはく)領の「オストマルク」に由来します。辺境伯とは、国境を防衛するために置かれた軍事拠点に派遣される役人の呼び名です。当時、ドイツの東にはフン族などが次々に侵入していました。それらから本土を守るためカール大帝やオットー大帝は、オストマルク辺境伯を置いて守備させたのです。このオストマルクが、12世紀中ごろにオーストリア公国となりました。
ここからは、神聖ローマ帝国となった国々が、どのように誕生していったのかを紹介します。
スイスからやってきた名家
神聖ローマ帝国の西南部(現在のスイス)にいた一諸侯のハプスブルク家が、オーストリアで実権を握るのは13世紀のことです。家の名は、ハビヒツブルク城を拠点としたことに由来します。
ハプスブルク家の発祥の地であるスイス(まだ国はありませんが、ここではそう呼びます)は、アルプスの高地に位置します。当時からヨーロッパの南北の交通が交わっており、ヨーロッパで人やものの行き来がさかんになるのつれ、重要な場所となっていきました。
ハプスブルク家がオーストリアを支配し始めると、隣接するスイスの人々はそれを嫌って抵抗します。3つの州が中心となって結束し、200年以上も抵抗した結果、15世紀の末にスイスは事実上の独立を果たしました。
バラバラだった神聖ローマ
国家は「領土」があって成立します。しかし、13世紀の神聖ローマ帝国には国際的に認められた領土というものがなく、皇帝の支配領域がどこまでなのかがあいまいでした。当時は皇帝でなく各領主が、それぞれに農民から税金を取り立てていたのです。
たとえば、収穫した作物はもちろん、動物を飼育したりハチミツを採取したりする森林の使用権、パン焼き窯(がま)や粉をひくための水車を利用する権利など、農民たちの生活を支えるありとあらゆるものに課税しました。そして、農民たちには移動の自由を認めませんでした。
1273年、ハプスブルク家出身のルドルフ1世が領主たちによる選挙で皇帝となると、大空位時代が終わりました。その後はふたたび有力者が対立します。ハプスブルク家が高帝位を独占するようになるのは、15世紀半ば以降です。