じじぃの「カオス・地球_242_関眞興・ドイツ史・第1次世界大戦」

Second Ypres 1915: The Great gas Attack! Trailer

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rk6_O_exW1Q

Chlorine gas was used for the first time on April 22, 1915, in the Ypres Salient.


Ypres 1915: The First Gas Attack

September 21, 2014 Legion Magazine
Without warning, a yellowish-green cloud began drifting over the landscape toward the Allied front line.
It was April 1915 and the first to fall to the chlorine gas were soldiers from the 45th Algerian Division. Two days later, Canadian soldiers would be clutching their throats, choking on the same asphyxiating gas. We begin a series of articles on Canada’s initial battles on the Western Front.
https://legionmagazine.com/ypres-1915-the-first-gas-attack/

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦

4 近代ドイツ帝国

5 ワイマール共和国からナチスドイツへ
6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

4 近代ドイツ帝国 より

ヨーロッパの火薬庫が大爆発
長年支配されていたオスマン帝国から領土を回復するべく、1912年にセルビアモンテネグロギリシャブルガリアはバルカン同盟を結成します。その直後、バルカン同盟とオスマン帝国による戦争が勃発しました(第1次バルカン戦争)。

敗れたオスマン帝国は、イスタンブールとその周辺を除く、ヨーロッパ側の領土をすべて失います。さらに翌年、オスマン帝国から勝ち取ったマケドニア地域の支配をめぐり、ブルガリアセルビアギリシャモンテネグロが対立してふたたび戦争が起こりました。のちにルーマニアやトルコも介入して、戦火が広がります(第2次バルカン戦争)。

ブルガリアはこの戦いで敗れ、領土を縮小されました。2度の戦争を経て、セルビア人への不満を持つブルガリアオスマン帝国は、ドイツとオーストリアに接近します。

そして運命の1914年6月28日、ヨーロッパの火薬庫がついに爆発しました。

陸軍の軍事演習を視察するため、ボスニア州を訪れたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、州都サライェヴォでセルビア出身の青年に射殺される事件が起こります。

怒ったオーストリア政府は、25日あまりのち、セルビア政府に対して、オーストリアに反発する出版や組織の禁止、軍関係者や政府職員の解雇などを要求しました。

セルビアの回答にオーストリアが満足しなかったことで、両国間でついに戦争がはじまります。

周囲はみな敵
ドイツでは、東のロシアと西のフランスを同時に相手にするための作戦が練(ね)られました。ロシア軍の集結は遅れるであろうという予想のもと、東で多少の犠牲が出ても、西を先に制圧することを決めます。
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一方の東部では、予想よりも早く進撃してきたロシア軍をタンネンベルグの戦いで打ち破り、ドイツ軍はロシア領内に進みました。しかし広大な国土と自然の猛威、とくに冬の寒さにドイツ軍は苦しめられます。

またバルカン半島では多民族で構成されていたオーストリア軍の士気が低く、早々に戦闘不能となってしまいました。
ドイツ軍はオーストリア軍の代わりにバルカン半島にも進出しますが、戦線が広がったせいで厳しい戦いを強(し)いられました。

さらにアジア・太平洋でもドイツ軍は戦いました。相手は日本軍です。兵力で劣るドイツ軍は、山東半島などで日本軍に敗れ、多くのの将兵が捕虜となります。

1915年になると、中立だったイタリアが、オーストリアとの対立からフランス側について参戦。新たにイタリア戦線も開かれます。

オスマン帝国ブルガリアは、ロシアに対する反感からドイツ側について参戦し、バルカン半島や中東にも戦線が広がりました。もちろん、アフリカのドイツ植民地でも戦闘が発生し、ドイツは世界中で戦うことになったのです。

すべてで勝つことは困難と考えたドイツは、フランスの脱落を狙って激しく攻撃を加えますが、フランス軍の必死の抵抗で作戦は失敗します。

やがて、補給もままならないドイツ軍には病気で命を落とす兵も増えていきました。

数字でみる第1次世界大戦
1918年11月11日、パリの北東にあるコンピエーニュの森で、連合軍とドイツとの休戦協定が結ばれ、4年3ヵ月にわたる戦いがようやく終わりました。

第1次世界大戦では、各国とも多くの犠牲者を出しました。原因は、戦術のまずさと新しく開発された兵器でした。毒ガスやタンク(戦車)、戦闘機、潜水艦などが多くの兵士の命を奪いました。

どの国にとっても存続をかけた戦いであったことから戦闘は長期化し、本国はもちろん植民地からも人員が集められました。とことんまで戦い続けた結果、約7000万の軍人が動員され、1000万人あまりの戦死者、その数倍もの負傷者・行方不明者を出しました。それまでの戦争と違い、空襲などで一般人も巻き込まれます。

塹壕戦になったこともありますが、弾薬の消費量は予想を上回り、各国とも多大な犠牲を払ってボロボロになってしまいました。