じじぃの「封印された謎・サラエボ事件・なぜ第一次世界大戦のきっかけになったのか?世界史の雑学」

教科書では教えない!ハプスブルク家王子の秘めたる愛の物語がサラエボ事件の裏にあったとは!!泣けるサラエボ事件【総集編】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GuLBoeVYKnU

サラエボ事件

ウィキペディアWikipedia) より
サラエボ事件は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニアセルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。

フランツ・フェルディナントは連邦化構想の支持者であり、オーストリアハンガリー二重帝国内のスラブ人地域から第三の王国を形成し、二重帝国を三重帝国へと改編することに賛成していると見られていた。スラブ系民族による第三の王国は、セルビア民族統一主義に対する防波堤となる可能性があり、そのためにセルビア民族統一主義者らは大公を脅威として認識していた。プリンツィプは裁判中、大公が計画していた改革の阻止が暗殺の動機の1つであると述べた。

大公夫妻が暗殺された6月28日(ユリウス暦における6月15日)は、セルビアでは聖ヴィトゥスの日(Vidovdan)と呼ばれる祝日であるのと同時に、1389年のコソボの戦いの記念日でもあり、コソボの戦いではオスマン帝国のスルタンがセルビア人によって暗殺される事件が起きていた。

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『失われた世界史 封印された53の謎』

歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行

第一次世界大戦の起源の謎――そもそもオーストリア大公は、なぜ危険なサラエボに? より

1914年6月28日、オーストリアハンガリーの帝位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が、ボスニアヘルツェゴビナサラエボで暗殺された。このサラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発するのであるが、民族問題で不穏な情勢にあるのを知りながら、彼ら夫妻はなぜサラエボに赴いたのか。

消去法で選ばれた後継者

第一次世界大戦勃発の直接の原因はサラエボ事件にあった。それは高校の歴史教科書にも出てくることだが、その場所が現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、暗殺されたのがオーストリアハンガリー二重帝国の帝位継承者夫妻という説明に違和感を覚えた人が多いのではなかろうか。

ボスニア内戦が記憶に新しい世代は、ボスニア・ヘルツェゴビナが民俗的にも宗教的二も非常にデリケートな地域であることを承知している。程度の差こそあれ、現地事情は事件当時も今もさして変わらず、そんな危険なところになぜ夫婦は出かけていったのか。
また、なぜ皇太子夫妻ではなく、帝位継承者夫妻と表現されるのかと感じる人もいるのではないか。以上の諸点を明らかにする鍵はすべて、皇帝の座を世襲してきたハプスブルグ家のお家事情にあった。

オーストリア・ハプスブルグ家は1848年12月に即位したフランツ・ヨーゼフの治下にかってない激動を経験する。長年ドイツの中心であり続けていたところが、新興勢力プロイセンの台頭に押されるばかりで、1866年のプロイセンとの戦争ではあえなく破れ、その翌年にはハンガリーとの二重帝国、すなわちフランツ・ヨーゼフがオーストリアハンガリーの君主を兼ねるという形の帝国再編を余儀なくされた。従属の民であったハンガリーマジャール人オーストリア人と同等の地位を認める。ハンガリー人の協力を得ることで、大国としての地位を守ろうとしたのである。

老帝と帝位継承者の対立

フランツ・フェルディナントはよく言えば生真面目、悪く行けば直情径行型の実に面倒な人物。フランツ・ヨーゼフとは正反対の性格の持ち主で、内政外交ともにフランツ・ヨーゼフとは真っ向から対立した。
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結論を先にいえば、フランツ・フェルディナントが希望したのは貴賤結婚だった。相手の女性は、フランツ・ヨーゼフの遠縁にあたるフリードリヒ大公の妃イザベラに仕えるゾフィー・ホテクという名の女官だった。ボヘミアの伯爵家令嬢だから、一般庶民からすれば貴族の家柄だが、皇帝への拝謁もかなわない伯爵家出身ではハプスブルグ家に嫁入りする女性としては役不足だった。

最悪の日に最悪の場所へ

ゾフィー・ホテクには侯爵夫人の肩書が贈られるが、公式の場では夫と同席することは許されず、離れ離れでいなければならなかった。

諸権利の放棄を宣言したからは仕方のないことだが、外遊に出れば事情が違った。次期皇帝の機嫌を取るにはゾフィー・ホテクを持ち上げさえすればよい。周辺諸国はこぞってそう考え、彼女を皇太子夫人と同格にもてなしてくれた。

やがてフランツ・ヨーゼフの少し酷に過ぎたと思い直したか、併合して間もないボスニア・ヘルツェゴビナにおいて実施する軍事演習にフランツ・フェルディナントを派遣するにあたり、ゾフィー・ホテクを夫人として同伴することを許可した。

国内における公式行事に初めて同席できるとあって、2人は嬉々としてサラエボに赴いた。そこに黒い魔手が待ち受けているとは考えもせず。

当時のボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人やクロアチア人など、南スラブ系諸民族による地下活動が盛んで、「黒手組(統一か死か)」という秘密結社から武器や資金の援助を得て、要人暗殺の機会をうかがう者たちも存在した。フランツ・フェルディナント夫妻はまさにその火中に跳びこんだかっこうだった。

6月28日というのはセルビア人にとっては特別な日だった。バルカン諸国連合軍がオスマン軍に敗れ、多くのセルビア貴族が処刑されたのが1389年のその日だったからだ。現地の不穏な情勢をフランツ・フェルディナントの耳に入れた者もいたかもしれないが、有頂天の表帯にある彼の耳には雑音としか聞こえなかったのかもしれない。

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どうでもいい、じじぃの日記。

第一次世界大戦

第一次世界大戦は近代史で最も破壊的な戦争の1つだ。
この戦争の結果、1,000万人近い兵士が戦死し、この数字はそれまでの100年間のすべての戦争における軍人の死者数を超えた。

1914年、ハプスブルク家の皇太子夫妻がサラエボセルビア人に暗殺された。
欧州における地域戦争だったのが、戦争は拡大し続け、トルコ、イタリア、日本、さらにはアメリカまで参戦し、世界規模の戦争になった。

大量の死者が出た原因の1つは、機関銃や毒ガスのような新兵器の導入だった。

スペイン風邪の大流行

この戦争の直接的被害と間接的被害によって1,300万人に及ぶ非戦闘員が死亡したとみられている。

日本だけでも、このスペイン風邪で38万人が死亡した。

サラエボ事件のようなことが起きる可能性

国防総省は10月17日、中国軍機による南シナ海で米軍機などに対する「威圧的で危険な行為」が急増しているとして、映像や写真を新たに公開した。

同省によると、今年1月、南シナ海の上空で米軍機が国際法に従って飛行していた際、中国軍機が約9メートルの位置まで接近した。

ネットで、この中国軍機の”異常接近”の動画を見ていたら、元自衛隊幹部の方がこんなことをいっていた。

「この異常接近は中国軍隊の上層部からの指令を受けてやっているのか、勝手にやっているのはは分からないが、危険な行為です」

10月、中国軍で核ミサイルを管轄するロケット軍の司令官が解任された。

中国軍隊のなかで、規律が乱れていることが考えられるらしい。

サラエボ事件のようなことが起きる可能性がある。