じじぃの「歴史・思想_14_世界史大図鑑・ビスマルク(ドイツ・鉄血宰相)」

Who is Otto Von Bismarck? (History)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zp-of6FaJU8

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

武器を持とう。同胞のために戦おう 千人隊の遠征(1860年

1860年5月11日、イタリアの愛国的ゲリラ闘士ジュゼッペ・ガリバルディが、イタリア全土から集まった義勇兵の軍勢を率いて、当時ブルボン王朝の両シチリア王国に一部だったイタリア南部のシチリア島に上陸した。軍勢は1,000人強だったので「千人隊」と呼ばれた。ブルボン王朝の打倒が目的だったが、その後をどのような政府が治めるべきかということについて、はっきりとした見通しはほとんどなかった。
1849年につかの間のローマ共和国を建設した革命家ジュゼッペ・マッツィーニと同じように、ガリバルディも王族と聖職者と貴族の特権を終わらせる決意をしていた。また、オーストリアによりイタリア北部の支配を終わらせるという目標と、イタリア統一の理念も、そのあと押しをしていた。地理や歴史など、共通の国民的要素に基づいた新しい政治的実体を求める考え方は、ナショナリズムと呼ばれるようになる。

オットー・フォン・ビスマルク より

1862年からプロイセン首相、1871年~90年にドイツ帝国首相をつとめたオットー・フォン・ビスマルク(1815年~98年)は鉄の宰相とも呼ばれ、ドイツ統一を主導したすえにヨーロッパ大陸をも牛耳った。
ビスマルクのおもな目標は、オーストリアの犠牲のもとにドイツ世界におけるプロイセンの主導権を確保し、ふたたび敵意を示すフランスの脅威を抑えることだった。1864年、1866年、1870年に3つの戦争を仕掛けはしたが究極の日和見主義者であったビスマルクは、その後はヨーロッパの勢力均衡を保つことに全力を注ぎ、利害の衝突を巧みに調整していった。
ビスマルクはドイツを壮大な産業化計画へ向かわせ、ドイツ軍のさらなる拡張を監督し、植民地化計画に着手した。社会制度に関しては保守主義者であったが、世界初の福祉制度も導入した。もっとも、その動機はドイツの労働者の利益を守ることではなく、敵対する社会主義者を出し抜くことにあった。

ナショナリストの野望

ナショナリズムの矛盾する動機が最も複雑にからみ合っていたのがオーストリアのハプスブルグ帝国で、中央ヨーロッパの多様な民族が名ばかりのウィーン体制のもとに集まっていた。1867年、前年にオーストリアプロイセンに敗れたことを受け、ハンガリーオーストリアからほぼ完全に独立した。その結果生じた「二重帝国」――オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国となった――は、ハンガリー人の国民意識を大幅に高めただけでなく、ハンガリーが特にトランシルヴァニアクロアチアについて、ウィーンから領土に関する重要な譲歩を獲得することにつながった。オーストリアハンガリーのあいだは緊張状態がつづいたとはいえ、両者はばらばらに存在する民族集団による暴動を特に恐れていたため、慎重を期して連合国家を維持することを選んだ。たとえばハンガリー側は、自分たちが求めた政治的な権利を自国内に数多くいるスロヴァキア人、ルーマニア人、セルビア人に認めることには明らかに消極的だった。同時に、バルカン半島におけるオスマン帝国の支配が弱まったことが、ナショナリズムの運動を刺激した。たとえば、セルビアは早くも1817年にはほぼ独立した国家となった。現在のルーマニアにほぼ相当するヴァラキアとモルダヴィアも、1828年までに同様の独立の主張をおこなった。古代ギリシャ文明の後継者を自任し、ヨーロッパじゅうの自由主義者たちからの支持を得たギリシャは、9年の戦争を経て1830年に独立を確保した。
オーストリアとロシアは競ってオスマン帝国の跡地を埋めようとした。1876年にオーストリアが挑発的にボスニアを占領し、それが1914年の第1次世界大戦勃発に直接つながった。1912~13年のバルカン戦争――実質的にはセルビアブルガリアギリシャのあいだの激しい覇権争い――は、ナショナリズム主導による建国がもたらした不安定化のさらなる証拠だった。