じじぃの「科学・芸術_679_オスマン帝国・露土戦争の敗北」

The Russo-Turkish Wars 動画 YouTube
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オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』 林佳世子/著 講談社 2008年発行
オスマン体制の終焉――1770〜1830 より
1768年に始まる第一次の露土戦争は、ロシアのエカチェリーナ2世ポーランドに介入し、元愛人でもある貴族をポーランド王として送り込んだことに端を発する。同時にロシアは黒海西岸からドナウ川まで軍を進め、オスマン帝国を刺激した。かねてよりアーヤーンの私兵軍の整理にあたっていた大宰相ムフスィンザーデ・メフメト・パシャは、準備不足を認識して開戦に反対したが解任され、68年10月オスマン帝国は開戦を宣言した。そこから先に挙げた非正規兵の募集が始まり、急仕立ての大軍が編成された。
しかし、ドナウ川に沿った城砦の防衛ラインは機能せず、70年にカルタルが主戦場になった戦争でオスマン軍は大きな損害を受け、敗北した。この戦いではロシア軍4万、オスマン軍10万〜15万という兵力差があったにもかかわらず、オスマン軍は総崩れとなり、ドナウ川を渡る途中のパニックだけで2万〜4万の兵が失われたといわれる。この結果、モルドヴァとワラキアがロシア軍に占領された。
また、ロシア軍はクリミア半島を占領し、さらに、バルチック艦隊イギリス海軍の支援を受けてジブラルタル海峡経由で地中海に進み、エーゲ海の港チュシュメに停泊中のオスマン艦船を焼き払った。イスタンブールを征服するというエカチェリーナ2世の宣伝も夢物語ではなくなっていた。
この間、オスマン軍が伝統的に得意としてきた軍への食料供給や武器の供給も滞り、被害を拡大した。人数だけは多い前線への物資の補給は、途中の要塞がロシア軍の手に落ちたことなどにより、困難を極めた。
当時の1年の通常予算が平均1400万銀貨といわれるなか、この戦争には現金だけでも4年間で3200万銀貨が支出されている。その多くが非正規兵やイェニチェリ(常備歩兵軍団)への支払いにあてられた。平和の30年の間に蓄えられた財は底をつき、オスマン財政は、突如、破綻寸前にまで追い込まれた。
1772年から続いた和平交渉は、結局、1774年にブルガリアのシュムメでオスマン軍が敗れたのを機にまとまり、キュチェク・カイナルシャ条約が結ばれた。ロシア側も広がる農民反乱への対応などから、戦争の継続は望んでいなかった。この条約によりロシアのオスマン領からの撤兵は約束されたものの、オスマン帝国は膨大な賠償金を支払い、黒海でのロシア商船の活動権、ロシアのモルドヴァ、ワラキアの正教徒に対する保護権を認めた。また、クリミア・ハン国オスマン帝国の属国から脱し、独立するものと定められた。
ロシアは、この条約を足場に、83年にはクリミア・ハン国を征服、併合している。
おわりに――「民族の時代」のなかで より
独特の仕組みで統合されていた前近代のオスマン帝国が終焉し、そのあとにバルカン諸国家や近代オスマン帝国、エジプトが生まれたのが、19世紀前半のバルカン、アナトリア、中東の状況だった。ギリシャセルビアルーマニアモルドヴァ、ワラキア)はすでに「民族」を理念に自治や独立を達成し、エジプトは、エジプト人を国民とする国家へ一歩を踏み出していた。
「何人(なにじん)の国」でもなかったオスマン帝国のあとには、「民族の時代」が訪れた。それ以後、21世紀の今日にいたるまで、バルカン、アナトリア、中東では、政治的、社会的、経済的近代化と並んで、宗教や言語を指標とした「民族」原理に基づく国家の形成という課題が追求されてきた。
2つめの課題、すなわち民族原理による国家形成は、時に、社会的、経済的な秩序や発展、さらには人命を犠牲にしてまでも追及された。結果として、バルカンでの民族運動の開始から現在に至る200年の間に、この地域では、おびただしい量の血が流された。流血は現在も止んではいない。この2000年の近代化と民族主義の歴史のなかで、1922年の近代オスマン帝国の消滅は、1つの区切りに過ぎない。長い歴史で考えれば、18世紀末の伝統的なオスマン秩序の終焉こそが、新しい「進歩」と「流血」の時代の幕開けだったといえるだろう。