じじぃの「歴史・思想_10_世界史大図鑑・徳川家康」

Life in Edo Japan (1603-1868)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wIygLo_W1Sw

Edo Period (1615-1868) Culture

江戸時代は本当に鎖国か? 見直し進む対外歴史研究

2013/10/06 るいネット
鎖国」に対する事実検証が、近年急速に進んでいるそうです。
以下の紹介記事にあるように、現在は教科書でも「鎖国」という言葉を使わない、あるいは非常に慎重に使用する様になっています。
かつては、「鎖国」という言葉は否定的に使われ、近代化を妨げる閉鎖性・後進性を帯びた政策と教えられていました。
もっともこれには、江戸時代の政策を否定し、自らを近代化政策を正当化しようとした新政府の意向が強く反映された、いわは政府主導の洗脳政策の趣があります。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=281970

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

勝って兜の緒を絞めよ 関ヶ原の戦い(1600年)

徳川家康 より

武士の棟梁となった徳川家康は、1542年、日本の中部、三河国の小さな土豪の嫡子として生まれた。武将となるための教育を受け、成長してからは、織田信長(1534年~82年)――激動の戦国時代において、最も気性の荒い武将として恐れられた――や、信長の後継者である豊臣秀吉(1536年~98年)といった、力のある戦国大名と同盟を結んだ。
信長や秀吉と手を組んだことで、家康は所領を増やしただけでなく、忠誠と軍事力の重要性を学んだ。このふたつがそろっていたために、秀吉は短期間であるが、日本の統一を成しえた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、家康が天下をとった。
家康は将軍として国に安定をもたらしたが、表向きにはあずか2年で引退し、息子の秀忠にその職を譲って、円滑な継承により、徳川の将軍職が長く世襲されていく体制を整えた。こうして秀忠が第2代将軍となったが、家康は死亡するまで約10年にわたって、実質的な支配者だった。

徳川将軍家 より

徳川幕府は多くの点で、先の支配者たち、特に豊臣秀吉の統治を手本にしている。秀吉は高貴な生まれではなかったが、関白として国を治めた人物だった。1580年代にほぼ天下を統一し、軍事封建的な支配体制を敷いて、諸国の大名や武士を通じて強大な権力を振るった。徳川家も同じ方法を採用し、大名に地方の所領を守らせた。さらに家康は、大名を1年おきに江戸へ参勤させて、領地で力を蓄えないよう用心したほか、敵対する者は容赦なく抑えつけた。
歴代の徳川将軍は忠義を善とする倫理観を醸成し、きわめて有効な支配体制を築いた。そして全国の道路網を改良し、学問を奨励し、貨幣を統一していく。また、日本における外国の影響を減らそうとして、外国人を追放し、外国との接触を制限した。例外的に中国、朝鮮、オランダのみが、きびしい管理のもとで貿易を許されたが、ほかのヨーロッパ諸国は日本人をキリスト教徒に改宗させて実権を握ろうとしていると疑われ、排除された。
同時に、日本人が国外へ出ることや、遠洋航行船を造ることも禁じられた。この鎖国政策によって、日本は外国からほぼ切り離され、19世紀半ばまで西洋の影響をあまり受けなかった。

浮世 より

徳川幕府の時代に都になった江戸は、都市文化の中心として栄え、五・七・五の17音を定型とする短詩である俳句や、演劇と舞踏の要素を結び合わせた歌舞伎、人形劇である文楽などが興隆した。ほかにも風景画や木炭画といった視覚芸術の分野が大いに発展した。
江戸の上流階級はだんだん享楽的になり、その暮らしぶりは「浮世」と称されるようになった。もとは「憂き世」、すなわち、つらく苦しい世の中という意味で、無常な現世から離れて、悩みや俗世の欲とは無縁の極楽浄土へ行きたいという仏教思想を反映している。ところが江戸時代には、同音異義語の「浮世」が用いられるようになり、欲望を追い求める当時の風潮を反映して、つかの間のこの世を楽しむという側面を表すようになった。