じじぃの「人の死にざま_1021_高山・右近」

高山右近 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91/1369053/
高山右近生誕の地 高山のキリシタン遺物 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=u_6tXe4shSU
高山右近】木俣清史 絵画展 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Cf843DxCcHI
歴史秘話ヒストリア 「私は“愛”を信じます〜絶対に裏切らない武将・高山右近〜」 NHK
本能寺の変の後、秀吉に従った右近は仲間の武将に教えを広め、キリスト教は「高山の宗門」と呼ばれる。しかし宣教師に日本征服の意図を疑った秀吉が突然、宣教師追放令を発し右近に棄教を迫ってきた。右近は命令を拒んだため領地を没収されて放浪の旅へ。追い打ちをかけるように仲間の武将が次々教えを捨てる。行くあてがなく途方に暮れる右近を救ったのは、かつて右近を裏切り教えに背を向けた仲間たちだった。しかし安住の地を得た右近に、フィリピンへの国外追放令が出される。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/68.html
高山右近 ウィキペディアWikipedia)より
高山右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。
キリシタン大名として】
右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村政治・蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。
だが右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君以外の何者でもなかった。友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。

                                    • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
高山右近(たかやまうこん) (1552-1615) 63歳で死亡。 (一部抜粋しています)
山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに秀吉方として戦ったキリシタン大名高山右近は、のち明石6万石に封ぜられたが、天正15年秀吉が禁教令を発するに及んでもキリシタンを棄てず、大名の地位を追われた。その後前田家の客分となって暮らしていたが、慶長19年こんどは家康の禁教令のために、当時イスパニア領であったルソンに追放されるに至った。
日本を去るに当たって、彼が友人細川忠興に残した最後の手紙が、昭和56年9月に発見された。
「近日出舟仕候 仍此呈一軸致進上候 誠誰ニカト存候志耳 帰ラシト思ヘハ兼テ 梓弓ナキ数ニイル 名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命墜 名ヲ天下ニ挙 是ハ 南海ニ趣 命懸天名ヲ流 如何六十年之苦 忽散申候 此中之御礼ハ 中々申上候々々 恐惶敬白
 九月十日            南坊等白
 羽越中様参人々御中」
南坊等白は右近の茶々の雅号である。
現代訳
「近日船出いたします。そこでここに掛軸一本を進上します。どなたに差しあげるべきかと考えましたが、あなたが適当と思いました。ほんの気持ちだけです。帰らじと思えばかねて梓弓亡き数に入る名をぞ留むる、と詠んだ彼、楠木正行は戦場に赴いて命を落とし、私は南海に赴いて命を天主にかけて名を波に流すだけです。六十年の苦しみもたちまち消える思いです。 この間いろいろお世話になった御礼はなかなか申しあげかねるほどでございます」
この手紙を書いて1ト月後、慶長19年7月、妻子、バテレンらとともに右近を乗せた船は長崎を出港し、途中難破しかけたこともあったが、1ト月ちかくかかって無事マニラに到着した。
彼はフィリピン総督ドン・シルースに歓迎され大邸宅を与えられたが、気候と食物の激変のゆえかみるみる弱り、おまけに熱病にかかって、マニラ到着後40日ほどで、この世を去った。

                                    • -

高山右近 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91&gs_l=hp...0l5j41l3.0.0.2.865568...........0.UV8YyZePXdw&sa=X&oi=image_result_group