じじぃの「百済の古都・扶余・白村江の戦い・大和朝廷のルーツを求めて!古代史紀行」

騎馬民族 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GPNlHp4vKG8
埴輪 画像
http://www.kyuhaku.com/pr/exhibition/images/topic/61/p01-l.jpg
白村江 画像
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/images/image-5/0310-14.jpg
5世紀の朝鮮 (百済

益山(イクサン)王宮里遺跡、百済後苑の全貌を確認 2013/11/27
今回の発掘調査によって確認された後苑の多彩な怪石と水を利用した景観づくりは、現在に至るまで韓国の造景技術の根本であり、また百済宮苑関連の記録を裏付ける唯一の発掘調査の成果として、その意義は大きい。
http://krnews.jp/sub_read.html?uid=5883§ion=sc10§ion2=%E6%AD%B4%E5%8F%B2
歴史秘話ヒストリア 「日本にもあった? 謎の巨石文明 〜目覚める 飛鳥“石の女帝”〜」 2014年10月21日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】斉明天皇 役&ヒストリアンヌ 高島礼子
●エピソード1 巨石群の伝説と珍説を訪ねる飛鳥の旅
 キツネが踊る舞台と伝えられた石舞台。傾くと不作になるといわれたマラ石。10トンを超える亀石は実は動いていて、西を向いたとき奈良盆地が水没……明日香(飛鳥)の石造物にまつわる伝説を訪ねる今回のヒストリアンヌ、女優の高島礼子さん。そうした奇怪な巨石の中には、実は謎解決の手がかりも?
●エピソード2 石の都を築いた “石の女帝”
 飛鳥の巨石群を造った人物として、近年注目されているのが女帝・斉明天皇。彼女の時代、東アジア情勢は緊迫しており、朝鮮半島百済の国が滅亡寸前でした。その百済の遺跡では、飛鳥とそっくりな石の都が出現!これは何を意味する? そして、女帝が石の都と巨石を用いて催したのは盛大なパーティー!?
今年夏、都塚古墳の発掘で巨大な石造物が発見、“奈良のピラミッド”と沸いた。この“ピラミッド”があった場所こそ奈良・明日香村―飛鳥。実は飛鳥は“巨石の地”である。石舞台、亀石、鬼のまな板、岩船…飛鳥に点在する数々の石の巨大遺物は、誰が何の目的で作ったのか長年解らなかった。
しかし、4年前の牽牛子塚古墳の発掘によって光がさす。80トンの巨石をくりぬいた石室に眠る女性、斉明天皇による石造りの都の姿が明らかになってきたのだ。
朝鮮・百済といえば日本文化と切っても切れない昔の朝鮮半島三国時代の有名な国。
王宮里遺跡の発掘が進められている益山(イクサン)が百済の王都であったという王都説が浮上している。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/217.html
百済 ウィキペディアWikipedia)より
百済(くだら)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年? - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。
【仏教】
仏教の受容は高句麗に遅れること10年で、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかっていない。5世紀末以降になると、475年(文周王元年)に遷都した熊川(現公州)の寺院址では12寺が、538年(聖王16年)に遷都した扶余では26寺が、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。
天孫降臨 ウィキペディアWikipedia)より
天孫降臨は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話である。

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『古代史論争最前線』 安本美典/著 柏書房 2012年発行
卑弥呼はだれか、邪馬台国はどこか (一部抜粋しています)
北九州から出雲方面には天の菩卑(ぼひ)の命が行き、それから大和方面には饒速日(にぎはやひ)の命が天下り、そして、南九州には邇邇藝(ににぎ)の命が天孫降臨したという形で行ったとみられます。
このように、この台与の時代は、北九州から日本のあちこちに勢力がおよんでいった時代だったろうと思います。その一環として南九州に天降った人たちがいた。そうしてそれが後の大和朝廷につながるということになるというわけです。
要するに、日本の神話では、邇邇藝の命の3代後の子孫の神武天皇が、宮崎県から出発して東征して大和朝廷を建てました。それは北九州にあった邪馬台国のヤマトの名を継ぐものであったと、私は考えるわけです。

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『古代史紀行』 宮脇俊三/著 講談社 1990年発行
百済の古都 (一部抜粋しています)
飛鳥時代へと入るまえに、韓国へ行ってこようと思う。言うまでもなく、この時代の精児や文化を語るうえで、朝鮮半島南部との交流は欠かせない。
このうち、大きな影響を受けたのは百済(くだら)であり、とくに聖明王(554年没)の時代である。仏像や仏典を日本へ送った(538年)のも聖明王であった。
百済の歴史は隣接する高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)との抗争に日本の軍事的援助や唐の攻撃などのからんだ、かなりややこしいものだが、大ざっぱに言えば、北からの高句麗の圧迫で南へと追われ、つぎに東の新羅の進出によって滅ばされた、ということになる。都も漢城(ソウル近郊)から、熊津(現在の公州)、扶余(ふよ)へと移り、660年に滅亡している。その直後に日本は百済復興を目指して大軍を派遣したが、663年、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、長年にわたる朝鮮半島での勢力を失う結果となった。
しかし、そうした勢力衰退の百済の歴史ではあっても、安定期はあり、仏教文化の華を咲かせている。とりわけ扶余へ遷都(538年)した聖明王(在位523-554年)の時代が華やかだった。が、その聖明王新羅との戦いの陣頭に立ち、戦死している。王の最後の模様は『日本書紀』の欽明天皇15年の条にくわしく記されている。
10月24日(昭和62年)、土曜日、成田発10時00分の大韓航空でソウルへ向う。韓国に行くのははじめてである。
日本の上空は雲に被われていたが、朝鮮半島にかかると快晴になり、太白山脈ダム湖、岩の露出した丘を見下ろすうちに機の高度が下り、12時15分、スモッグにけぶる金浦空港に着陸した。
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公州への国道は山間に入り、岩の露出した山々が現れてきた。頂きのあたりが紅葉している。運転手がハンドルも片手を反して左にそびえる岩峰を指さし、「鶏竜山」と言う。地図によれば、鶏竜山一帯は国立公園になっている。
鶏竜山の山間を抜けると、平地が広がり、まもなく錦江の岸に出る。水量の豊かな川で、河原は淡褐色の砂地である。この錦江の岸辺に百済の古都の公州や扶余がある。錦江は白馬江、あるいは白村江とも呼ばれ、あの「白村江の戦い」がおこなわれたのは、この川の河口付近であった。
錦江の南岸沿いに西へ走ると、公州の家並に入る。まず自動車の修理工場などが現れ、うぎに繁華街という型は日本とおなじである。建物もモルタルやコンクリートで、韓国らしい家は、ほとんど見当たらない。看板がハングルばかりであることを除けば、日本の地方の小都市と変わりはしない。道行く人の顔も似たようなものだ。
そんな公州なので、古都らしい面影は感じられないのだが、要害の地としての条件は整っている。ほどよく突起した丘があり、その裾(すそ)を巻くように錦江が迂回し、北側、つまり高句麗に対する自然の濠となっているのである。丘の上に山城が築かれるのも肯ける。
公州で見るべきものは、迂回する錦江への突出部分にある宋山里(ソンサンリ)古墳群、特に武寧王陵である。武寧王の在位は501-523年で、有名な聖明王の父にあたる。
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バスは扶余の町に入り、まもなくターミナルに着いた。バスを降りると、隣が市場で、大声で野菜を売るおばさんや、大鍋で豚の足などを煮込む屋台など賑やかだったが、そこから脱出すれば、扶余は小さな静かな町で、大通りを行く車の数も少ない。
古い住宅はほとんどなく、日本の地方都市とおなじように安直な近代建築ばかりだが、高いビルなどはない。
時刻は午後2時20分。今夜は町の北はずれにあるユースホステルに泊る予定であるが、「定林寺址」がバスターミナルから近いので、まずそこへ行く。
定林寺の由来は定かではないのだが、発掘調査によると、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ「四天王寺式」の伽藍配置だったという。
この寺は新羅によって攻め滅ぼされたとき、すべて破壊されてしまったのだが、ただ一つ、五重の石塔だけが残っている。高さ9メートルばかりの小さな塔だが、この塔は韓国の石塔の貴重な原型とされている。
塔が破壊されずに残ったのは、初層に刻まれた「大唐平済国碑銘……」の文字によるものだろう。つまり、新羅と手を組んで百済を滅ぼした唐の将軍蘇定方等の功績を、この塔に刻んだからである。その文字は、1300年余を経た今日でも、はっきりと見えている。ハングルではなくて漢字だから、私にも読める。それにしても、百済を滅ぼした功績の文字のゆえに、この塔が温存されたという事情は、百済にとって痛し痒しではある。

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どうでもいい、じじぃの日記。
http://space.geocities.jp/hhiratsuka2005/
少し古い本だが、宮脇俊三著『古代史紀行』という本を見ていたら、「百済の古都 扶余」というのが出てきた。
と書いたが、「扶余」のことが気になって、図書館で「扶余」が書かれた本を探していたら、この本があった。
なんで、「扶余」かというと、手塚治虫の漫画の 『火の鳥・黎明編』に大和朝廷は大陸から渡ってきた騎馬民族として描かれていたからだ。
扶余という地名は中国東北部と韓国に存在する。そして、日本の古墳からは騎馬民族を思わせる服装、馬、馬具、武器を形どった埴輪が出土している。
中国東北部に住んでいた一部の騎馬民族朝鮮半島の扶余のあたりに移動したのだろうか。
「都も漢城(ソウル近郊)から、熊津(現在の公州)、扶余(ふよ)へと移り、660年に滅亡している。その直後に日本は百済復興を目指して大軍を派遣したが、663年、有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、長年にわたる朝鮮半島での勢力を失う結果となった」
百済の都は扶余だった。扶余の近くには白村江(現在の錦江の近郊)がある。
この本の著者は、大和朝廷(日本の天皇)のルーツを求めて韓国の扶余を訪れた。
「この寺は新羅によって攻め滅ぼされたとき、すべて破壊されてしまったのだが、ただ一つ、五重の石塔だけが残っている。高さ9メートルばかりの小さな塔だが、この塔は韓国の石塔の貴重な原型とされている」
韓国の扶余に大和朝廷のルーツを求めて行っても、その当時を想い出させてくれるのが、この小さな五重の石塔だけなんだ。
日本の古墳から出土した埴輪と同じものが韓国の扶余からも出てくれば、やはりと思うのだろうか。
日本人といえば、日本に古来から住んでいた人々と、朝鮮(主に百済)から渡ってきた渡来人からなるらしい。
じじぃはどっち系なんだろう。