奈良都塚古墳は日本には例のないピラミッド? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kytuDhcEhMc
万世一系の皇位継承 皇極・斉明天皇 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HFX1BKsmRmg
益山(イクサン)王宮里遺跡、百済後苑の全貌を確認 2013/11/27
今回の発掘調査によって確認された後苑の多彩な怪石と水を利用した景観づくりは、現在に至るまで韓国の造景技術の根本であり、また百済宮苑関連の記録を裏付ける唯一の発掘調査の成果として、その意義は大きい。
http://krnews.jp/sub_read.html?uid=5883§ion=sc10§ion2=%E6%AD%B4%E5%8F%B2
日本のパワースポット案内巨石巡礼50 - 146 岡田謙二 Google ブックス
松本清張の古代史ミステリー『火の路』は酒船石(さかふねいし)の前で、若き古代史の研究者高須通子とフリーのカメラマン坂根要助、雑誌「文化領域」の副編集長福原庄三が出会うシーンから始まる。
六四五年、皇位して皇極(こうぎょく)天皇(推古天皇に次ぐ二人目の女帝)となる。六四五年、皇位を孝徳(こうとく)天皇に譲るが、六五四年、孝徳天皇が崩御すると、翌年重祚(一度退位した君主が再び君主の座に就くこと)して斉明天皇となった。
http://books.google.co.jp/books?id=9U5AzVkUsLIC&pg=PA145&dq=%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87+++%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%80%A0%E7%89%A9&hl=ja&sa=X&ei=7wNPVLe_M8r-8QWW9IHwAQ&ved=0CEYQ6AEwCA#v=onepage&q=%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87%20%20%20%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%80%A0%E7%89%A9&f=false
歴史秘話ヒストリア 「日本にもあった? 謎の巨石文明 〜目覚める 飛鳥“石の女帝”〜」 2014年10月21日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】斉明天皇 役&ヒストリアンヌ 高島礼子
●エピソード1 巨石群の伝説と珍説を訪ねる飛鳥の旅
キツネが踊る舞台と伝えられた石舞台。傾くと不作になるといわれたマラ石。10トンを超える亀石は実は動いていて、西を向いたとき奈良盆地が水没……明日香(飛鳥)の石造物にまつわる伝説を訪ねる今回のヒストリアンヌ、女優の高島礼子さん。そうした奇怪な巨石の中には、実は謎解決の手がかりも?
●エピソード2 石の都を築いた “石の女帝”
飛鳥の巨石群を造った人物として、近年注目されているのが女帝・斉明天皇。彼女の時代、東アジア情勢は緊迫しており、朝鮮半島の百済の国が滅亡寸前でした。その百済の遺跡では、飛鳥とそっくりな石の都が出現!これは何を意味する? そして、女帝が石の都と巨石を用いて催したのは盛大なパーティー!?
●エピソード3 “石の女帝”は 巨石の部屋に眠る
なんと斉明天皇の陵墓は石造の八角形ピラミッドだった!? 総重量550トンの石を運ぶため動員された人数、実に2万人! 80トンの巨石をまるごと使った女帝の死後のすみか!! さらには、そのプロトタイプも現代に残されている!! 巨石好き女帝の心のうちには何が…?
今年夏、都塚古墳の発掘で巨大な石造物が発見、“奈良のピラミッド”と沸いた。この“ピラミッド”があった場所こそ奈良・明日香村―飛鳥。実は飛鳥は“巨石の地”である。石舞台、亀石、鬼のまな板、岩船…飛鳥に点在する数々の石の巨大遺物は、誰が何の目的で作ったのか長年解らなかった。
しかし、4年前の牽牛子塚古墳の発掘によって光がさす。80トンの巨石をくりぬいた石室に眠る女性、斉明天皇による石造りの都の姿が明らかになってきたのだ。
朝鮮・百済といえば日本文化と切っても切れない昔の朝鮮半島の三国時代の有名な国。
王宮里遺跡の発掘が進められている益山(イクサン)が百済の王都であったという王都説が浮上している。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/217.html
皇極天皇 ウィキペディア(Wikipedia)より
皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇。在位は、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)。
重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。
推古天皇から一代おいて即位した女帝である。
百済 ウィキペディア(Wikipedia)より
百済(くだら)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年? - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。
【仏教】
仏教の受容は高句麗に遅れること10年で、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかっていない。5世紀末以降になると、475年(文周王元年)に遷都した熊川(現公州)の寺院址では12寺が、538年(聖王16年)に遷都した扶余では26寺が、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。
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『日本書紀に封印された「謎」』 関裕二/著 宝島社 2012年発行
「狂心の渠(溝)」と罵られた斉明天皇 (一部抜粋しています)
中大兄皇子といえば、「乙巳の変=大化改新」を成し遂げた古代史上の英雄として名高い。しかし、この先入観が邪魔をして、この人物の評価を誤らせてきた。中大兄皇子は反動勢力であった。すると、中大兄皇子の懐刀中臣鎌足は、中大兄皇子にいったい何を期待したのだろうか。
筆者はこれまで、中臣鎌足の正体(出目)を、人質として来日していた百済王子豊璋(ほうしょう)だったのではないかと指摘してきた。
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それは、朝鮮半島で衰弱著しい百済が、全方位型が外交を推し進める蘇我政権を倒さなければならなかったからだろう。しかし、直接手を出せば、外交問題に発展する。だからこそ「中臣鎌足=豊璋」は、中大兄皇子をそそのかし、蘇我入鹿を殺させ、さらに、孝徳朝を潰すと、百済救援軍を派遣する体制作りを急いだ、ということになる(拙著『蘇我氏の正体』を参照)。
興味深いのは、斉明朝で盛んに土木工事が行われたことだ。『日本書紀』の斉明2年(656)是歳の条には、次のようにある。
時に、斉明天皇は事業を興すことを好まれた。すなわち、水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、天香具山(あまのかぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで通した。舟二百隻をもって、石上山の石を積んで、流れのままに飛鳥の岡本宮の東の山に運び、石を重ねて垣にした。人々は謗(そし)り、「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)だ。この溝を掘るために、三万余の人夫が駆り出され、石垣を造るために七万余の人夫が駆り出された。宮の用材は腐り、山頂は埋まってしまった」と噂した。さらに謗り、「石で山丘を造ろうとも、造ったそばから崩れるだろう」と言った。
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ところで、この土木事業は、百済遠征を目前にした下準備であろう。百済遠征をするということは、都を空っぽにしていくことになる。わずかな兵士で、反中大兄皇子派の攻撃から身を守らねばならない。中大兄皇子は蘇我氏の恨みを買っているから、恐怖心は倍増しただろう。だからこそ、「渠(溝)と垣」を造り、防衛拠点を用意したということにほかあるまい。また、民衆は、遠征が失敗することをすでに悟っていて、だからこそ、不平を漏らしていたのだ。