じじぃの「聖徳太子は実在したのか・蘇我氏の正体は?同時にわかる歴史」

歴史ミステリー 聖徳太子はいなかった!? 動画 Youtube
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関裕二 「つくられた聖徳太子

聖徳太子 ウィキペディアWikipedia)より
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
【後世の評価】
関晃は次のように解説する。
「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」。

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『同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史』 小口彦太 PHP文庫 2012年発行

「日出づる処の天子」と名乗った聖徳太子は、実在しない? (一部抜粋しています)
中華文化圏の帝国では皇帝のことを「天子」と呼んだ。これはエンジェルではなくエンペラー、すなわち天の神である天帝の子、天帝の代理人という意味だ。
607年、小野妹子ら一行が大和朝廷の遣隋使として隋を訪ねた。隋の煬帝は彼らを歓待したが、大和朝廷の国書を手渡されて面食らう。そこに「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記されていたからだ。
当時の中国大陸の皇帝にとって「天子」は自分ひとりだけ、あとはすべて臣下という感覚だった。だが、倭が南朝の梁に使節を送ってから100年をへて、大和朝廷のもとで強固な王権を築き、隋と対等な国を自認するまでになったのだ。
この自信たっぷりの国書を記したのが、聖徳太子厩戸王子)だといわれる。
30代後半以上の人には旧1万円札の肖像として知られる聖徳太子だが、近年では「聖徳太子は架空の人物だったのではないか?」という説が有力だ。
中国の史書『隋書』の「倭国伝」でも、聖徳太子に該当する人物は特定できないのだ。
そもそも『日本書紀』の聖徳太子に関するエピソードは、生まれてすぐしゃべった、10人の話を一度に聞いたなど、誇張されていそうな記述が多い。
だが、たしかに厩戸王子という人物は実在したようだ。ただし、冠位十二階や十七条の憲法の制定、高句麗の僧・慧慈や百済の僧・慧聰を通しての仏教新興、遣隋使の覇権などの偉業は、蘇我氏と共同で進められたという見方が有力だ。
後世にこれらが聖徳太子ひとりの業績とされたのは、大化の改新で滅んだ蘇我氏の業績を歴史から消すためだったという解釈がある。

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どうでもいい、じじぃの日記。
じじぃの住んでいる千葉県の千葉市に「蘇我」という駅がある。近くに「蘇我比竎神社」というのがある。
日本の飛鳥時代に勢力を誇っていた「蘇我氏」と関係があるのか、ないのか。
日本書紀』を編纂したのが、「藤原不比等」という人だった。
藤原不比等藤原鎌足の息子で、持統天皇文武天皇元明天皇に仕えて、その後の藤原氏隆盛の基盤を作った。律令体制を整え、国家としての日本を確立した人物だ。藤原氏の出目は百済系らしい。
一説によると、藤原不比等は自分の家系に都合のいいように、歴史を作り変えたのではないかという。
日本書紀』のなかで、蘇我氏についてほとんど書かれていない。
そのためか、蘇我氏の出目もよくわかっていないが、新羅系らしい。
実は「聖徳太子」は実在しないで、蘇我氏の業績を架空の人物 聖徳太子の業績にしてしまったというのだ。
「中国の史書『隋書』の『倭国伝』でも、聖徳太子に該当する人物は特定できないのだ」
聖徳太子は実在しなかったのかもしれない。