じじぃの「聖徳太子・和を以て貴しとなす・皇室と日本語!本当にあった歴史雑学」

「日本を前に進める」河野大臣“改革姿勢”アピール (2021年9月10日)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4RQl5XVhZus

3分でわかる「聖徳太子」 偉業とおもしろい話

2021.08.13 偉人
聖徳太子とは
聖徳太子(しょうとく-たいし)は、西暦600年頃、飛鳥時代の皇族です。
厩戸皇子(うまやどのみこ)とも言いますが、これは厩戸前にて出生したと言う伝承からともされます。
第31代・用明天皇の第2皇子として生まれました。
https://rekan.jp/147/

河野太郎氏「自民党を変え、政治を変える」総裁選へ出馬表明

2021.9.10 Yahoo!ニュース
保守主義とは「度量の広い、中庸な、あたたかいもの」
私は初当選以来、一貫して自由民主党へ所属して政治活動を行って参りました。自由民主党保守政党であります。私は保守主義とは度量の広い、中庸な、あたたかいものだと思っております。

そしてこの日本を日本たらしめている日本の一番の礎となっているものがこの長い伝統と歴史と文化に裏付けられた皇室と日本語、これが日本を「他の国と何が違うの?」と聞かれた時に「日本語と皇室です」と。そしてその上に我々の先祖が築いてきた様々な歴史や文化や伝統がそれぞれの地域地域で根付いています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/7cf2ad290665b92b53418fbe8b5c2bec313019c4

『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』

青山誠/著 彩図社 2021年発行

天皇家の好感度アップのために作られた超人 聖徳太子天皇家のイメージ戦略の産物 より

旧1万円紙幣の肖像としても馴染み深い聖徳太子は、敏達天皇3年(574)に第31代用明天皇の皇子として生まれた。本名は厩戸豊聡耳皇子「厩戸王(うまやどのおう)」として記録に残っている。
厩戸王推古天皇30年(622)に亡くなり、それからの約半世紀後に壬申の乱が起こる。勝った大海人皇子(おおあまのおうじ)は第40代天武天皇として即位するが、骨肉の争いを繰り広げてきた天皇の求心力は著しく低下している。そこで天武政権は様々なイメージ戦略を実行する。そのひとつが「聖徳太子」の創出だった。
厩戸王が生きた時代は、古代王朝が中央集権国家に急成長する過度期。その過程で十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使派遣などの歴史的大事業が行われた。天武政権はそれらをすべて厩戸王の手柄として書き換えた。その時代に生きていた皇族を伝統のスーパースターに仕立て上げることで、天皇家の好感度アップと権威回復を狙った。と、近年はそう考える歴史研究家が多い。
聖徳太子は、生前の功徳を称えてつけられた尊称とされているが、この名が世に出てくるのも天武政権以降のことだ。天平勝宝3年(751)編纂の『懐風藻(かいふうそう)』に「聖徳太子」の名が見つかるが、現在のところそれよりも古い記録は存在しない。

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『世界に誇れる日本人』

渡部昇一/著 PHP文庫 2007年出版

第1章 聖徳太子 より

十七条憲法モーゼの十戒のようなもの

聖徳太子がのこされたものとして、十七条憲法もある。これももちろん重要である。
十七条憲法は非常に融和的で、1つのイデオロギーで押していくところがない。「仏教を重んじよ」というけれども、別に宗教改革をやるわけではなく、神様をなくせという意味は全くない。神様のことは当然の当然としている。
また、イデオロギーに基づかず、法律のもとになるような思想をのべた憲法という意味で、聖徳太子の十七条憲法憲法らしい憲法といえるだろう。
細かいことを規定するのが法律である。だから、どんな小さな法律でも長くなる。現在の税法だけでも、本として重ねると大人の身長の半分ぐらいある。その法律のもとになる理念、考え方を憲法という。極端なことをいえば、それはモーゼの十戒のようなものである。モーゼの十戒に基づいて細かい規則や法律を作り得る。この「法の精神を示す」という点で、聖徳太子の十七条憲法は本質的な意味における憲法の性格を持っている。
そして、その聖徳太子の考え方は日本人に染み渡っている。聖徳太子についてはいろいろなことが指摘されているが、日本人のメンタリティーや生き方の面で潜在意識にまで入り込む基礎を作られたことを評価すべきだろう。たとえば「和を以て貴(たっと)しとなす」は実践的な発想法として日本人の常識のようになっている。喧嘩がいいということは絶対にいえない。そういう規範を宗教と言う形を取らず、憲法で作ったというところが偉い。仏教の五戒など、宗教には規範がいろいろとあるが、それと法律の中間に来るものが憲法だと思う。
ちなみに、後に武家が家訓を作る時、百条というようなまとまりがいい数字以外は、聖徳太子憲法の倍数でまとめた場合が多い。半端な数があるのはだいたい十七で割ると割り切れる例が多いのだ。このあたりにも聖徳太子の後世への影響をうかがうことができる。朝倉孝景(敏景)の家訓のように「十七箇条」と同じ数にした武将もある。