【NHKヒストリア】持統天皇を描く里中満智子漫画とコラボ 10日放送(浜村淳) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0qKNaRlWMCg
天皇系図 38〜50代
歴史秘話ヒストリア 「古代日本 愛のチカラ 〜よみがえる 持統天皇の都〜」 2015年6月10日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【解説】里中満智子
●エピソード1 大海人とサララ 最強夫婦 誕生!
讃良(サララ)皇女は大海人皇子(のちの天武天皇)と政略結婚させられますが、しだいに愛情を深めていきます。壬申の乱で即位した天武天皇のおきさきとして共に政治にあたるサララ。しかし病がサララを襲います。奈良の薬師寺には、その時の夫・天武天皇の思いやりが…“最強”夫婦、愛と闘いの秘話。
●エピソード2 夫の遺志は私が継ぐ!
夫亡き後、その志を継ぐためサララは即位します。持統天皇です。近年、持統天皇が築いた都・藤原京の規模は、平城京や平安京を超えることが分かってきました!巨大な首都と全国道路網の建設−持統天皇が反対を押し切ってまで大事業をすすめた背景には、当時の日本の危機的状況がありました。
●エピソード3 永遠に…
藤原京の真南にある古墳・野口王墓は、天武天皇の陵墓です。これは都の宮殿の持統天皇が亡き夫に語りかけながら政をおこなったことをしのばせます。やがて崩御した持統天皇も、同じ陵に葬られました。しかし、その埋葬は天皇自身の遺言で、初めての“火葬”。持統天皇・サララ生涯最後の愛とは…
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/246.html
『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』 井沢元彦/著 PHP文庫 2015年発行
持統天皇――なぜ、自分の遺体を「火葬」にしたのか? (一部抜粋しています)
天武天皇の治世は673年〜686年の13年間、その後、皇位を受け継いだのが天武天皇の皇后であった鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)でした。これが持統天皇です。鵜野讃良皇女の父親は天智天皇なので、2人は今風に言えば叔父・姪の結婚ということになりますが、当時はこういうことはよくあることでした。
ここで疑問を持っていただきたいのは、なぜ皇后が天皇位を受け継いだのか、ということです。というのも、天武天皇には多くの皇子がいたからです。でも、今の教科書には「なぜ、皇子ではなく皇后が皇位を受け継いだのか」、その理由は何も書かれていません。
天武天皇のあと、皇后が即位して持統天皇になった。
(『新日本史B』桐原書店)
『日本書紀』によれば、天武天皇は681年に多くの皇子の中から草壁皇子を皇太子にしたとされています。草壁皇子が皇太子に選ばれたのは、彼が皇后である鵜野讃良の産んだ唯一の息子だったからです。
しかし、残念なことに草壁皇子は病弱でした。しかも『日本書紀』によるとその能力も1歳年下の異母弟・大津皇子より見劣りしたようです。(持統天皇が編纂に関わった『日本書紀』にそう記録されているくらいですから、おそらくこれは事実だったと思われます)。それでも草壁皇子が皇太子になれたのは、壬申の乱から天武天皇の治世を支え続けてきた鵜野讃良皇女の強い後押しがあったからだと思われます。
天武天皇は病の床で、皇后と皇太子に後事を託して亡くなります。それでも皇后は才能豊かで健康な大津皇子の存在が気がかりだったのでしょう。天武天皇の死後わずか1ヵ月で、大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ、自害させられてしまいます。これには反対もあったようですが、ここでも皇后が押し切るかたちで刑は執行されます。
ところが、何としても我が子・草壁皇子に王位を継がせたいという鵜野讃良皇女の思いとは裏腹に、病弱だった草壁皇子は、天武天皇の喪が明けきらないうちに亡くなってしまいます。
自分の血を受け継ぐ者に天皇位を継がせたいと思う鵜野讃良皇女は、ここで亡くなぅた我が子・草壁皇子のまだ幼い遺児・軽皇子に望みを託します。しかし、いかにしても軽皇子は幼すぎました。そこで、孫の軽皇子が成長するまでの間を繋ぐために自ら即位したのです。
・
なぜ天皇の遺体を火葬にすることが遷都を防止することになるのかというと、遷都を行なわなければならない根本的な原因、つまり死穢の発生を遺体を火葬にすることで防げると考えられたからです。
天皇が死ぬことによって、死のケガレによってその周辺は汚染されて使えなくなるというのが日本古来の考え方です。
でも、外来宗教である仏教にはそうした思想はありません。その仏教では遺体を焼却するというそれまで日本にはなかった方法で遺体処理を行ないます。こうしたことから、新しい宗教である仏教を導入し、そこで行われる火葬という儀礼を用いれば、諸悪の根源である「ケガレ」の発生を防止できるのではないか、と考えたのです。
持統天皇は、自分が死ねば、その死によってケガレが発生することを恐れて、また遷都が行われることがわかっていました。
でも、そんなことを繰り返していたのでは、日本はいつまで経っても都が発展せず、大陸の国々と肩を並べるような大国になることはできません。
日本を発展させるためには、どうしても永続的な「首都」を造ることが必要だと考えたからこそ、持統天皇は自らの遺体を火葬にすることでケガレの発生を防ぎ、時代の天皇にも遷都せずに今の都を使い続け、発展させることができるようにしたのです。
事実、文武天皇は持統天皇の造った都「藤原京」をそのまま使い続けます。