じじぃの「カオス・地球_335_日本人の精神構造史・第1章・倭国から日本国へ」

遣唐使

ウィキペディアWikipedia) より
遣唐使とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。

遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された第8次遣唐使である。日本側では遣使に文武天皇が初めて節刀を与えて国交正常化を目指し(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法だと、周辺諸国律令導入と編纂を認めなかったとする説が有力となったことから、成立困難となっている。
当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。粟田真人大使により日本の国号変更が報告され、中国皇帝は東アジアでの国号調整権を持ち則天武后が承認したのもこの時である(『新唐書』「東夷伝」日本条)。記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったという説がある。

なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。

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すぐ忘れる日本人の精神構造史

【目次】
はじめに
序章 民俗学の視点で日本の歴史を見るということ

第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった

第2章 武家政権が起こした社会変化
第3章 信仰、道徳、芸能の形成
第4章 黒船来航、舶来好き日本人の真骨頂
第5章 敗戦、経済大国、そして凋落へ

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『すぐ忘れる日本人の精神構造史―民俗学の視点から日本を解剖』

新谷尚紀/著 さくら舎 2024年発行
生活が苦しくても「しかたがない」と我慢する、責任追及をせず問題点をふわっとさせたまま何となく進み、やがて忘れる――そんな日本人の思考や行動の傾向性は「稲作を土台に、律令制+荘園制+武家政権の時代」を経て培われてきたといえる。本書では日本の歴史の経歴、慣習の積み重ねを民俗学の視点から歴史を追跡することで、どうやってそのような日本人が育まれたのかを知り、これからの社会のあり方、日本人のあり方を考える。

第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった より

稲作から生まれた大王

「日本」と「天皇」の誕生
古墳時代、「日本」という国の名前も「天皇」という称号も、まだありませんでした。
この本では便宜上最初から「日本」とか「日本人」と書いていますが、日本というのは701年に施行された大宝律令公式令詔書式に「御宇日本天皇詔旨」とあるのが最初の記述です。

翌702年(大宝2)に遣唐使粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が唐に渡ったときに、どこの国から来たのかと問われて「日本国使」と名乗ったと、「続日本書紀」の704年(慶雲(けいうん)元)7月の記述には書かれています。
その記事の中では、唐では683年(永淳(えいじゅん)2)に天皇太帝(高宗)が崩じたので、国号を大唐から大周へ変え皇太后則天武后、そくてんぶこう)が登位して聖神皇帝と名乗っていると書かれています。『史記正義』(736成立)という『史記』の注釈書には、その則天武后倭国をあらためて日本国と為すことを許可したと書かれています。則天武后は、自分の「皇帝」という称号よりも高宗の「天皇」の称号のほうが低いと考えたようなのです。ちなみに、古代道教では北極星のことを天皇大帝と呼んでいました。

つまり、「日本」や「天皇」というのは、律令国家が形成されてくる天武天皇や持統(じとう)天皇の時代から使われるようになった呼称です。それまでは「倭国」とか「倭人」とか「大王」と呼ばれていました。「倭」という呼び方は紀元前2世紀の『漢書』地理志の「楽浪海中に倭人あり」とか、3世紀の「魏志倭人伝」に「倭人は帯方の東南大海の中にあり」「伊都国(いとこく)」「対馬国」など多くの小国があり、それらの中心は女王「卑弥呼」の「邪馬台国」で、魏の皇帝からその卑弥呼に「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を授けたと記されているように、古代の中国で呼ばれた呼び名でした。

それまで自分たちを表す言葉をもっていなかった日本の王たちが、その「倭」というのがあまりよい意味の漢字ではないことに気がついたのが、600年と607年の2回の遣隋使の派遣や、その後の630年からの遣唐使の派遣によってでした。そして、672年に壬申(じんしん)の乱に勝利して即位した天武天皇持統天皇の時代に、唐との外交の場でそれまでの倭の国号からあらためて「日本」という国号を使うようになりました。その天武と持統の天皇の時代に同じく、古くから「大王」と書かれていたのをあらためて「天皇」と書くようになったのです。(吉田孝 『日本の誕生』岩波新書、1997/神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』講談社学術文庫、2016など)。

大王の記事で有名な史料が、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣、雄略天皇の時代の471年の「獲加多支鹵(わかたける)大王」の銘文です。そして、天皇の記事で有名なのが、奈良県飛鳥池(あすかいけ)遺跡から出土した木簡、天武天皇の時代の「天皇聚□弘寅」の文字です。

ですから、古くから中国の漢字で「倭」と書かれていたのをあらためて「和」と書くこととしたものが「和服」とか「和装」とか「和食」などの言葉としていまも残り、「大倭」を「大和」と書くことにして「やまと」と呼ぶようになってきているのです。つまり、「わ」という語は古くからのものでした。

「大王」も「天皇」へとあらためられていきましたが、それは日本各地の「王」たちの中でも「とくに大きな王」という意味でした。いまでも「おおきみ」という語は残っており、王を意味するのは「きみ」という語が古くからのものでした。いまでも日常的のよく使われている「きみ」という呼び方は、歴史の中でいろいろと意味は変わってきていますが、そもそもは非常に古く、丁寧な言葉なのです。

ちなみに、近年になって2004年(平成16)に中国の西北大学が発表しました、日本留学生で734年に唐で客死した井真成(いのまなり)という人物の墓誌に「国号日本」の文字が刻まれていたという話題が注目されたこともありました。