じじぃの「人の死にざま_1444_最澄」

平安時代最澄空海 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=r-VAIQ5I5nQ
比叡山延暦寺 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FWOjlF0hOfM
最澄 ウィキペディアWikipedia
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。
先祖は後漢孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。

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同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史 小口彦太/著 PHP文庫 2012年発行
同時に唐に渡ったが、対照的な人生を過ごした空海最澄 (一部抜粋しています)
真言宗を開いた空海と、天台宗を開いた最澄は、804年に同じ遣唐使の船団で唐に渡っている。空海は第1船、最澄は第2船だったが、航海技術が未熟な当時は危険な船旅で、第3船は行方不明になり、第4船は孤島に漂着した。
じつは、ちょうどこの回の航海から、日本と新羅のあいだで、遣唐使朝鮮半島近海に漂着したら新羅経由で唐に届けるという条約が結ばれている。
さて、空海最澄はいろいろ対照的だ。当時30歳の空海はまだ無名の僧で、薬生(医学生)として派遣されたという。いっぽう、空海より7歳上のの最澄は、桓武天皇の信任もあついエリート僧で、もともと後漢献帝の血を引く渡来人の末裔といわれた。空海は唐の言葉をしゃべることができ、最澄は通訳が必要だった。
最澄は唐の天台山法華経などを学んだが、8ヵ月ほどで帰国している。いっぽう、空海長安に2年以上も滞在し、大日経などのインド密教の経典や密教儀式をきわめた。
よく知られているとおり、最澄は帰国後に比叡山天台宗を開き、空海高野山真言宗を開く。天台宗は唐にもあり、最澄はそれをアレンジしたが、真言宗空海が日本でまったく独自に創始したものだ。ただし、両宗派とも国家鎮護のための祈祷を重視する。
当時の朝廷は、疫病が蔓延したり災害が起こったりすると、政争で死んだ皇族の祟りとみなし、よく祈祷を行なった。当初は最澄が皇室に重用されたが、やがて本格的な密葬の儀式に通じた空海が、多くの貴族の支持を集めていく。