じじぃの「21世紀をリードする日本の花鳥風詠?仏の発見」

能絵をみる: 白楽天(はくらくてん)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/noh/nohe/2007/06/post_15.html
古今和歌集 仮名序
http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm
世阿弥 風姿花伝  「時分の花」と「真の花」
http://blog.goo.ne.jp/jr3tpb/e/12ce60302e127ae6228ea028111bea30
『仏の発見』 五木寛之梅原猛/著 平凡社 2011年発行
山川草木に宿る仏の不思議 (一部抜粋しています)
五木 日本の宗教家は、いっときみんな比叡山に学んでいます。親鸞みたいに長く比叡山にいた人もいますが、法然道元栄西日蓮、すべて比叡山にいったん入学し、そこで学んだものを根底において、独自の仏教思想をあみだしていきます。それはやっぱり本覚思想なんですね。
梅原 そう、本覚思想です。眉毛の長い良源という僧は、人相も異常な人間でね。叡山へ行くと、最澄より良源のほうが崇拝されているんです。はじめは妙なことだと思いましたけど、良源は、天台本覚思想の大成者だと考えられていますから、やっぱりごく自然なことだと思いました。 叡山の思想は天台宗じゃなくて天台密教で、それを大成したのが良源だとすれば、その思想は、古代末期から中世に完成したものですね。あなたがおっしゃったように、法然親鸞道元日蓮も、それをぜんぶ学んできたんですね。
五木 ぜんぶ学んできたと思いますね。その影響だけは非常に大きなものがあると思うし、天台本覚思想は根底に、神道的な基盤を、仏教とちゃんと融合させている部分があるんですよ。
梅原 そうそう。
五木 ですから、いい意味で、自然界のあらゆる物には、固有の霊魂や精霊が宿るというアニミズムと、さまざまな思想や宗教を融合するシンクレティズムは、日本の財産だと、私は言っているんですけど。
梅原 そうです。縄文時代弥生時代で、いちばん崇拝されたのが翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)です。翡翠というのは、白い色の中に、みどりが、ちょっちょっと、まだらに入っている。雪の中からみどりがあらわれていて、発芽するという、やっぱり植物の霊を表す。勾玉というのも、ああいう形をしているけど、初期の勾玉は、だいたい動物の形をしている。動物の霊の呪力を表していると思う。
五木 ほう。
梅原 だからイノシシの形をしていたり、魚の形をしている。そういうのが初期の勾玉だとすると、翡翠は植物の霊であり、勾玉は動物の霊です。そこにやっぱり、いわゆる「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」思想が先駆的に含まれる。
五木 そうですね。
梅原 日本の国は、縄文時代の文化が残っていて、それを仏教が変容させて、山川草木悉皆成仏という思想を生み出したとおもいます。そういう思想は、インド仏教や中国仏教にはないんです。インド仏教だと、衆生の範囲は動物までです。植物は衆生と言えない。
五木 なるほど。草木までいかない。
梅原 ええ。中国において道教の影響で、天台仏教の中にそれが入ってくるんだけど、そういう本覚思想は中国仏教の主流にはならない。日本に来てはじめて、そういう思想が仏教の主流になった。それはやっぱり、植物や動物や自然現象にも霊があるという、縄文時代以来の伝統思想が、仏教を変容させたのだと思います。
五木 いや、ほんとにそうですね。京都議定書や、環境問題がうまくいかないというのは、根底的に、人間が地上で一番大事なものだという、万物の霊長意識があるからなんですしょう。その大事な人間の生活を豊かにするためには、木を伐(き)ってもいいし、森をつぶしてもかまわないという、この傲慢な考え方を反省しなければ、前に進まないと思いますね。 でも欧米では、人間がこの地上でもっとも大事なものだという、ルネッサンス以来の思想が深く沁(し)みわたっていて、一朝一夕にはぬぐい去るのは難しいのではないでしょうか。
梅原 まったくおっしゃる通りだと思います。
五木 その点アジアでは、昔から人間以外の生物にも、自分たちと同じような「いのち」を感じていました。ですからブッダと同時代に生まれたジャイナ教ではアヒンサー=不殺戒(ふさっかい)をもっとも重要な哲戒としていますね。 興味深い話が伝わっています。インドに不況に行ったイエスズ会士が、空気中の小さな生き物も殺さないようにと、口に白い布きれをあてているジャイナ教徒に「そんなことしたって、お前さんの飲んでいる水はこんなに微生物が入っているんだよ」と顕微鏡で見せたところ、そのジャイナ教徒はアヒンサーを破るより、水を飲まないで死ぬ方を選んだという。
梅原 ほう、徹底していますね。だからね。その影響を受けてか、ヴェジタリアンになるんです。釈迦は。
五木 ああ、ヴェジタリアン。
梅原 植物まで生き物であり、生き物を食べたらいかんとなったら、食べるものがなくなる(笑)。
五木 そうなんですが(笑)、でも私は、前からそう思っているんですよ。べつに稲は人間に食べられようと思って実るわけじゃないんです。それなりに生きていこうとするところがある。 日本の仏教も、動物まで行ってるんですが、本覚思想は、まだ底辺まで仏教思想としては成熟していないような気がします。むしろ民衆の、祭りとか慣習の中で、木こりが木を伐るとか森に入るときに注連縄(しめなわ)を張ってみたり、熊祭りとか、ああいう行事の中に、いまでもあらわれているように思います。
梅原 天台本覚思想を、もっとも明確に語るのが能なんです。能のシテは人間ばかりじゃなくて動物、狐もあるし、ぬえもあるし、桜もあるし、そういうのが全部、霊をもって苦しむが、最後にはすべて救われるんですよ。
五木 なるほど。
梅原 私は天台本覚思想を勉強しようと、いろいろ文献を読んでみたが、よくわからなかった。しかし能を研究するようになったら、よくわかるようになった。 世阿弥(ぜあみ)に「白楽天(はくらくてん)」という能がある。唐の白楽天が日本の様子を探ろうとして、大きな船で博多へやってくる。それを知った住吉明神(すみよしみょうじん)が漁師に化けて、博多で待ち構えるんです。白楽天は漁師を見て、問答になるんです。はじめは漁師をバカにしているんですけどね。白楽天が詩をうたうと、すぐにそれを和歌にするんです。いったい詩とは、和歌とは何かということになる。白楽天が「詩は人間が作るものだ」と言うと、住吉明神は「和歌は人間ばかりか鶯(うぐいす)や蛙(かえる)も和歌を作るんだ」と言う。
五木 ほう。「生きとし生きるもの、いずれか歌を詠まざりける・・・・」。古今和歌集仮名序ですね。
梅原 そう、中世の古今集解釈でね。古今集の仮名序に、いま五木さんがおっしゃった言葉があるんです。それを文字通りに解釈して、死んだ人の霊が鶯になって和歌を読んだとか、蛙になって足で文字を書いたら立派な和歌になっていたとか、そういう中世の古今集の解釈がある。こういう解釈に基づいているんですけどね。その中で、雨の音も、風も、和歌だということになるんですよ。
五木 花鳥風詠(かちょうふうえい)というのも、あれは1つのアニミズムでしょう。
梅原 アニミズムです。それで中国の詩より、和歌のほうが上じゃということになってね、議論に負けた白楽天が、唐に逃げて帰るという面白い能です。これは日本最初の比較文化論だと思います。
五木 本覚思想というのは、それをきちんと体系化して思想化し、理論づけていったわけで、もともと、たとえば中世の人たちは、風の音にも命があり、若葉に息吹きを感じるという。植物とのあいだでも相照応(あいしょうおう)して、コレスポンダンスしている感じがあります。
梅原 そうそう。
五木 ですから日本は、資源がないと言われるけれども、21世紀は、これまで近代の中で日本人のアキレス腱(けん)と思われていたようなアニミズムシンクレティズムというものを、1つの思想として体系化し、それを大きな資源として、世界に中で、なにかの貢献ができるような気がするんですね。経済成長はもう限界があるんだから。

                                • -

どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館に行ったら新書コーナーに、五木寛之梅原猛/著 『仏の発見』があった。
「山川草木に宿る仏の不思議」か。山川草木、すべてに生命があるとでもいうのだろうか?
お釈迦さま、法然親鸞道元日蓮も、現代に生きていたら、モノの考え方が変わっただろうか。
西暦2004年、ヒトの全ゲノムの解読が終了した。
それから、2008年にはほとんどの生物のゲノムの解読終了が報告された。
遺伝子レベルで見ると、ヒトとチンパンジーのゲノムでは98.8%が同じ、ヒトとマウスのゲノムでは90%が同じ、ヒトと稲のゲノムでは40%同じなのだそうだ。
 花に鳴くうぐひす
 水に住むかはづの声を聞けば
 生きとし生けるもの
 いづれか歌をよまざりける
昔の人はこんなこと言われなくても分かっていたんだ。