じじぃの「カオス・地球_224_イスラム原論・第2章・キリスト教は愛の宗教か」

What is agape love?

The word agape means love, but in the Greek language used when the New Testament was written, there are four different words for love - each describing a specific attitude and application.
Agape love is one of the four. It refers to God’s in-depth love for people, and people’s love for both God and others.
https://www.bibleinfo.com/en/questions/what-is-agape-love

日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」

 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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本覚思想(ほんがくしそう)

コトバンク より
本覚とは始覚(しがく)に対する語。始覚とは,はじめて〈さとる〉こと,教えを聞いて修行し,はじめて得られる〈さとり〉。
しかし,〈さとり〉を体験するのは,本来わが身にさとりがそなわっているからだとして,それを本覚と名づける。本覚,すなわち本来そなえている覚(さとり)に気づかないことを不覚(ふかく)といい,不覚をとりはらうことによって始覚を得られると考えられた。《金剛三昧経》《仁王般若経》に本覚の語がみえ,《大乗起信論》には始覚と本覚との関係が述べられている。

鎌倉新仏教の法然親鸞道元日蓮らやその門下にも,本覚思想への反発と同時にその摂取をみることができ,ひいては本覚思想が日本仏教思想の基層をなしているともみられる。

円頓戒(えんどんかい)

コトバンク より
天台宗で、円頓の妙旨に基づいて授けられる大乗戒。梵網経ぼんもうきょうに説く菩薩ぼさつ戒。円戒。

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」 より

第1節……「一神教」の系譜 ――キリスト教の「愛」とアッラーの「慈悲」を比較する

日本人が気付かないキリスト教の異常性
ユダヤ教キリスト教イスラム教は啓典宗教であり、そのルーツを同じくする。
旧約聖書、ことにトーラーは神が与えた契約であり、重要な教典である。
ところが、同じ啓典宗教でありながら、イスラム教とキリスト教は似ても似つかない宗教ではないか。
そう思っている人は多いだろう。
ことに、今回の同時多発テロは、そういった印象をさらに助長させた観がある。
キリスト教は博愛の宗教。
これに対して、イスラムは聖戦を唱え、暴力を肯定する野蛮な宗教。
はたして、この印象は正しいか、それとも誤解なのか。
前章でも述べたとおり、キリスト教は、ユダヤ教にあったすべての律法を撤廃した。
この思想を確立したのが、パウロであった。
パウロは「ローマ人への手紙」の中で、次のように明確に律法を否定した。

  「しかし、義(ぎ)の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行(おこな)いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである」(「マタイ福音書」 9-31-32)

行いによって人は救われるのではない。心のうちにある信仰だけが重要なのである。

この教えゆえにキリスト教は、まことに特異な宗教になった。異常と言ってもいい。
ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。
その理由は、本書をここまで読んできた読者にはもうお分かりのはずである。

答えは「日本の仏教も戒律も廃止してしまっていたから」である。

最澄による円戒(えんがい)の採用と天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。
この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。
もちろん、こんな思想は本来の仏教からすれば、途方もない逸脱、異端である。
しかし、その異端的な仏教に慣れ親しんでいるものだから、日本人はキリスト教の異常さに鈍感なのである。

キリスト教がいかに異常きわまりない宗教であるか。
それはヨーロッパのみが近代社会を作り出したという事実に端的に現われている。
近代資本主義も近代デモクラシーも、キリスト教という異常な宗教があったからこそ生まれた。キリスト教の精神なくしては、近代の社会は生まれなかったのである。
が、これはのちの話。まずは、巷間(こうかん)言われているようにキリスト教は「愛の宗教」なのかという問題から、確認していきたい。

エスの一大独創”アガペー
キリスト教は外面的行動を問題にせず、ただひたすら信仰を求める。
そこで求められている信仰とは、具体的にはいかなるものか。
エスは律法学者から「何が最も重要な戒律であるか」と問われて、即座に2つのことを挙げた(「マルコ福音書」 12-28-33)。

すなわち、第1の戒(いまし)めは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」であり、第2の戒めは「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」であると。
これに続けて、イエスはこう断言した。
  「これより大事ないましめは、ほかにない」(同)

神と隣人への愛。

エスは、この両者への愛は無条件でなければならないと言った。

神が人間に対して無条件に無限の愛を注ぐように、人間もまた神や隣人に対して無条件に無限の愛を持たなければならない。分かりやすく言えば、見返りを期待してはならないということである。

この愛をキリスト教では「アガペー」と呼ぶ。無償の愛である。

この思想はユダヤ教にもあったものだが、アガペーをあらゆる規範の最上位に置いたことこそがイエスの一大独創であったのだ。