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ラマダンとは?本当の意味や断食する理由、1日の過ごし方などを解説
2023.04.04 ターキッシュ・カルチャークラブ
イスラム教の「ラマダン」という言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。ラマダンは、“イスラム教の断食”のことと思われがちですが、実は断食を意味する言葉ではないのです。
ラマダンの本当の意味やラマダンで行われる断食の時期・期間はどのくらいなのでしょうか。日本ではあまり馴染みがないラマダンですが、イスラム教にとっては非常に重要なもの。イスラム教徒は世界人口の約1/4を占めるため、国際社会を生きる日本人も教養として基礎知識はおさえておきたいところです。日本の文化とは異なる興味深い情報が得られるでしょう。
https://worldclub.jp/turkish/ramadan/
日本人のためのイスラム原論(新装版)
【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
第2節……「日本教」に規範なし
第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」
第1節……「一神教」の系譜
第2節……予定説と宿命論
第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
第2節……苦悩する現代イスラム
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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』
小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行
今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる より
第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
規範は「目に見える行動」だけを対象にする
イスラム教の信者には、基本的な義務として「六信五行(ろくしんごぎょう)」というものが課せられている。読んで字のごとく、6つのことを信じ、5つの行ないをなせ。これを守らなければ、イスラム教を信じたことにならないのである。
まず、六信の中身を簡単に説明しよう。
イスラム教徒は、以下の6つを信仰しなければならない。すなわち、神(アッラー)、天使(マラク)、経典(キターブ)、預言者(ナビー)、来世(アーキラット)、天命(カダル)である。
イスラム教を支える「五本の柱」
イスラム教において、信者は単にアッラーの存在を信じ、コーランの教えを信じているだけでは信者とは見なされない。
以下に述べる5つの宗教的義務を同時に果たして、はじめてイスラム教の信者になれる(なお、五行の前に清浄の行、すなわち、体を清潔にする義務がある)。そこで、五行のことをアラビア語では「5つの柱」(アルカーン・アルハムサ)と呼ぶ。この柱が1本でもなくなろうものなら、ガラガラと信仰は崩れるというわけだ。
規範の大原則は”白か黒か”である
イスラム教徒としての「第4の柱」は断食(サウム)である。
イスラム暦(れき)の第9月(ラマダン)の間、信者は断食をしなければならない。
断食と言っても、イスラムの場合、それは日の出から日没までに限定される。日が沈めば、物を食べてもいい。コーランには「その晩は妻と交わるがよい」とまで書いてある。
しかし、だからといってイスラムの断食が楽かといえば、けっしてそうではない。
何しろ、日があるうちは、食べ物はもとより飲み物さえも駄目だし、唾(つば)さえも飲み込んではならない。この点では日本で行なわれている断食道場の比ではない。
そこで断食には例外規定があった、病人や子ども、妊婦は断食をしなくてもいいことになっている。また、戦士や旅行者も除外対象である。
したがって、どうしても空腹に耐えられなければ、自動車に飛び乗って近郊を”少旅行”すれば断食はしなくてもいい理屈になる。
こう書くと、読者の中には「そんな抜け道が許されるのだったら、それは規範でも義務でもないだろう」と思う人があるかもしれない。しかし、それは大きな誤解である。
規範とは前に記したように、外面的行動を対象にする。なぜ、外面的行動が問われるのかといえば、それを規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるからである。
言うなれば、あるのは白と黒だけであって、グレー・ゾーンは存在しない。ここが肝心なところである。
ここまで述べてきたイスラム教徒の義務にしても、たとえば信仰告白では「アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と唱えることになっている。
そこで、前半の「アッラーの他に神なし」とだけ言って、後半の「マホメットはその使徒である」と言わなければどうなるか。はたして彼は規範を守ったのか、守っていないのか。
その答えは「守っていない」である。
「まあまあ守っている」とか「半分守った」という答えはありえない。命じられたとおりに行なっていなければ、それはただちに「守っていない」という結論が出る。ここが規範の規範たるゆえんである。
そこで断食の話に戻ろう。
イスラム教の規定では、たしかに断食は全信徒の義務である。しかし、その一方で断食をしなくてもいい人がいる。いわば、抜け道が存在するわけだが、この抜け道は、けっしてグレー・ゾーンなどではない。合法的例外なのである。
つまり、例外とされている妊婦や子ども、あるいは病人などは断食をしなくても、ちっとも罪の意識におびえる必要もなければ、憚(はばか)る(気がねする)こともない。明確に定められた例外規定に従っていれば、規範を破ったことにならないのである。
「イスラム共同体」は国籍や人種、身分までも超越する」
ここまでイスラムの五行(5つの柱)のうち、信仰告白、礼拝、喜捨、断食の4つを述べてきたわけだが、その最後を飾るのは巡礼(ハッジ)である。
イスラム暦の第12月、ムスリムの巡礼者たちは聖地メッカのカーバ神殿を中心に行なわれる儀式に参加する。イスラム教徒の成人は、一生のうち最低一度は巡礼を行なうべきであるとされているが、これだけは自発的義務で、どうしても行わなければならないというものではない。つまり規範ではない。経済的・体力的余裕がなく、巡礼をしないままに死んでも天国(緑園)に行けないわけではないのだ。
しかし、だからといって巡礼の義務を守らない信者が多いかといえば、そうではない。
カーバ神殿の巡礼者たちの大洪水を見れば分かるように、イスラム教徒にとって巡礼は特別の意味がある。這(は)ってでも巡礼に参加する信者もいるし、また自分が不幸にして行けないときには、自分の家族や友人に行ってもらうこともある。そして、巡礼に行った人は特別な尊敬を受ける。
以上がイスラム教徒の守るべき5つの義務なのであるが、ここで注目してもらいたいのが断食と巡礼の義務である。
イスラム教には「イスラム共同体」というべき独特の連帯(ソリダリテ)がある。
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こうしたイスラム独特の連帯を支えているのが、宗教的規範、ことに断食、巡礼といった義務なのだ。