じじぃの「カオス・地球_218_イスラム原論・第1章・六信五行」

イスラム教】常識として知らないと恥。コーラン。六信五行とは。

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=y6tyS4AV0Fw

六信五行

2020.11.23 Pando
六信五行は「ムスリムがその存在を信じるべき6つの事柄、ムスリムが行うべき5つの事柄」の事を指します。これらもすべてコーランに書かれており、ムスリムの最も大切な義務とされています。では一つずつ簡単に書いていこうと思います。
https://pando.life/nishimura/article/47123

日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】

第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる

 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし
第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」
 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる より

第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた

規範は「目に見える行動」だけを対象にする
イスラム教の信者には、基本的な義務として「六信五行(ろくしんごぎょう)」というものが課せられている。読んで字のごとく、6つのことを信じ、5つの行ないをなせ。これを守らなければ、イスラム教を信じたことにならないのである。

まず、六信の中身を簡単に説明しよう。

イスラム教徒は、以下の6つを信仰しなければならない。すなわち、神(アッラー)、天使(マラク)、経典(キターブ)、預言者(ナビー)、来世(アーキラット)、天命(カダル)である。

これらの個々の説明は後で述べるつもりだが、要するに、イスラム教徒は神や天使の実在を信じ、コーランに代表される教典や預言者マホメットの言葉を信じなければならない。また、最後の審判ののちに天国(イスラムでは緑園と呼ぶ)か地獄のどちらかに行くことや、この世の中の出来事はすべてアッラーの意志に基づくことに疑いを差しはさんではいけないというわけである。

信仰とは文字どおり、信じることだが、キリスト教とは根本的に違う。
神(アッラー)にはきちんとした九九の属性があり、それらもすべて信じなければならない。その他の天使(マラク)以下の5者も内容は確定されており、それらもまた信じなければならない。

さらに問題は、五行のほうである。

イスラム教を支える「五本の柱」
イスラム教において、信者は単にアッラーの存在を信じ、コーランの教えを信じているだけでは信者とは見なされない。

以下に述べる5つの宗教的義務を同時に果たして、はじめてイスラム教の信者になれる(なお、五行の前に清浄の行、すなわち、体を清潔にする義務がある)。そこで、五行のことをアラビア語では「5つの柱」(アルカーン・アルハムサ)と呼ぶ。この柱が1本でもなくなろうものなら、ガラガラと信仰は崩れるというわけだ。

さて、その五行の第1は、信仰告白(シャハダ)
アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と、絶えず口に出して唱えなければならない。
先ほども述べたとおり、イスラム教の六信には神・アッラーの実在やマホメット預言者であることを信じることが含まれている。しかし、信者は単にそれを心の中で信じていればいいのではない。その信仰をはっきり言葉にして外面に表わさなければならない。だからこそ、この信仰告白は規範なのである。

第2の義務は、礼拝(サラート)である。
イスラム教徒の生活は、礼拝に始まり、礼拝に終わる。
すなわち、夜明け、正午、午後、日没、夜半の5回、メッカの方角に向かい、定められた手順に基づいて礼拝を行なう。礼拝を行なう時間も正確に決められている。寝る前に5回分まとめて礼拝するなど、もっての外(ほか)である。とくに、金曜日正午の礼拝はことに重要で、モスクに集まり、指導者に従って礼拝を行なわなけならないとされている。
ちなみに、ここで注釈しておけば、モスクを「イスラム寺院」と呼ぶ人がいるが、それは間違いである。イスラムには僧侶はおらず、したがって僧侶が修行・性飼うtするための寺もない。モスクはあくまでも礼拝のための施設であり、礼拝所とか集会所と呼ぶのが正しい。

さて、第3は喜捨(きしゃ、ザカート)である。
喜捨、すなわち施(ほどこ)しは仏教も説いていることだが、イスラム教と仏教で大きく違いのは、仏教の場合、喜捨は義務ではない。つまり、施しはしたほうがいいけれども、しなくてもかまわない。これに対して、イスラム今日では、ザカートの額(がく)は明確に決まっていて、所得の40分の1ということになっている。
信者が出した喜捨は、バイトル・マール(財産の家)と呼ばれる場所に集められる。そして、そのカネは政府の手によって貧しい人などの分配されるというわけである。したがって、イスラム社会において、喜捨は税金の性質も持っている。
しかし、税金とは根本的に違うのは、喜捨は信者としての義務であるのだから、その額を減らそうとしたり、あるいはごまかすという努力をしない点にある。所得をごまかして少なめに寄付したりすれば、万能のアッラーはちゃんとそれを見破ってしまう。不正をすれば自分自身の来世(らいせ)に跳ね返ってくるのだから、正直に行なわなければならないのである。
もちろん、懐(ふところ)に余裕のある人はザカート以外に寄付を行なってもよい。それは「サダカ」と呼ばれる。サダカじはもちろん義務ではなく任意なのだが、所得の10~15パーセントが目安になっているところが多いようだ。
そこでもう1つ付け加えれば、貧しい人にザカートやサダカをしても、それでその人が貧しい人に売ったことにはならない。
喜捨はあくまでも義務であるのだから、感謝を強制することはできないし、喜捨をもらう側にしても卑屈(ひくつ)になる必要はないのである。もし感謝するとすれば、それはアッラーの神に対してなされるべきものなのだ。

規範の大原則は”白か黒か”である
イスラム教徒としての「第4の柱」は断食(サウム)である。
イスラム暦(れき)の第9月(ラマダン)の間、信者は断食をしなければならない。
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イスラム教の規定では、たしかに断食は全信徒の義務である。しかし、その一方で断食をしなくてもいい人がいる。いわば、抜け道が存在するわけだが、この抜け道は、けっしてグレー・ゾーンなどではない。合法的例外なのである。
つまり、例外とされている妊婦や子ども、あるいは病人などは断食をしなくても、ちっとも罪の意識におびえる必要もなければ、憚(はばか)る(気がねする)こともない。明確に定められた例外規定に従っていれば、規範を破ったことにならないのである。

イスラム共同体」は国籍や人種、身分までも超越する」
ここまでイスラムの五行(5つの柱)のうち、信仰告白、礼拝、喜捨、断食の4つを述べてきたわけだが、その最後を飾るのは巡礼(ハッジ)である。
イスラム暦の第12月、ムスリムの巡礼者たちは聖地メッカのカーバ神殿を中心に行なわれる儀式に参加する。イスラム教徒の成人は、一生のうち最低一度は巡礼を行なうべきであるとされているが、これだけは自発的義務で、どうしても行わなければならないというものではない。つまり規範ではない。経済的・体力的余裕がなく、巡礼をしないままに死んでも天国(緑園)に行けないわけではないのだ。