じじぃの「カオス・地球_231_イスラム原論・第2章・天国と地獄」

アッラーに祈りなさい、地獄の苦しみから救われますように|イスラム基礎知識:死後の天国と地獄の話しってどんな?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=A4p4jzNOFwI

イスラム教の天国ってどんなところ?


イスラム教の天国ってどんなところ?[60分でクルアーン9]

2020年9月11日 INFO-JOY
天国の場所についてクルアーンにはこのような記述があります。
65-12 アッラーフこそは7つの天を創り、さらにまた同数の地を創り給うお方。
https://info-joy.com/quran9/

日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」

 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

                  • -

『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」 より

第2節……予定説と宿命論――イスラムにおける「救済とは何か」

アッラーは商売上手!?
第1部で述べているように、イスラム教では日常生活のすみずみまでが規範によって規定されている。ムスリムはその規範に則(のっと)って生活することが求められている。しかも、ラマダン月になれば断食をしなければならない。
このことから我々はつい「イスラム教は禁欲的な宗教である」と考えてしまうわけだが、この緑園(りょくえん、天国)の記述が示すように、実はイスラム教は欲望を全然否定していない。

何しろ、緑園には妙齢(みょうれい)の美女が侍(はべ)り、しかも飲めど尽きせぬ酒が用意されているのだ。アッラーの神は、人間にとっていかに欲望が重要なのかをよくご存じなのである。ただ、この世で程度の低い欲望追及をするより、来世(らいせ)で最高度の快楽を味わったほうがいいと言っているにすぎない。

この点において対極的なのは仏教だ。
仏教では欲望、すなわち煩悩(ぼんのう)とはすべての迷いや苦しみの源泉であって、それを滅却(めっきゃく)することを目的とする。修行者はあらゆる欲望を断ち切らねばならない。飲酒やセックスはもとより、金儲けさえも禁じる。
ところが、アッラーの神はそうではない。
前にも「アッラー99の特性」という話を述べたが(第1章 第1節「アッラーは『規範』を与えたもうた」参照)、このアッラーの美質のなかには、なんと「勘定(かんじょう)高い」(表中では「計算」と示されている)という項目が掲げられている。つまり、アッラーの神は商売上手の神様でもあるのだ。
    ・
これはイスラムにおける救済が予定説ではなく、因果律は基づいていることを示す1例だが、善行のことを「稼ぎ高」と表現するなんて、日本人から見れば、「なんと明け透(す)けなことか」とびっくりしてしまう。
しかし、これは日本語にするなら、”徳を積め”ということだ。
コーランの中で、こうした商売にまつわる表現が頻出(ひんしゅつ)してくるのは、マホメットが生きていたアラブ地域が商業で栄え、しかもマホメット自身も商売をしていたからだと説明されているわけだが、いずれにせよ、アッラーは恐ろしく浮世のことに通じた神なのである。

「永遠の苦しみ」が待つイスラムの地獄
さて、コーランが説く緑園像に関して言えば、はたしてそうした場所に行きたいかどうかは意見が分かれるだろう。
美女がいて、酒が飲めても愉(たの)しくないという人も中にはいるかもしれない。また、緑園には冷たい水が潺々(せんせん、さらさら)と流れるという記述は砂漠に住む民なら記述は砂漠に住む民なら「ありがたい」と思うだろうが、北国に暮らす人にとってはちっとも魅力はないだろう。
このあたりはやはりコーランがアラブ地方の人々に向けて書かれたために起きる限界だろう。
だが、緑園については意見が分かれても、救済されなかった人が行くことになる地獄についての件(くだり)は、誰でも戦慄(せんりつ)する。

すでに述べたように、キリスト教では、救済されなかった人には単に「永遠の死」が与えられるだけであるのだが、イスラム教ではそうではない。緑園に入り損(そこ)ねた人たちは、完全な肉体を持ったままで地獄に堕(おと)される。

    ・
これがイスラムの描く最後の審判の姿だ。
すべての人間は天国(緑園)か地獄のどちらかに行く。カトリックの坊主の言うように煉獄(れんごく)みたいな”中間地帯”はない。
となれば、いかに「緑園は退屈そうだ」と思っても、地獄に行くわけにはいかない。何が何でも緑園をめざして、生きている間はせいぜい善行を行ない、信心に励まねければならない。こういう結論になるわけなのだ。

イスラムはなぜ「暗殺教団」を産んだのか
ここまでキリスト教イスラム教の救済を比較してきたわけだが、さて、どちらの宗教の救済像にあなたは親しみを感じるだろうか。
おそらく、ほとんどの人はイスラム教のほうが分かりやすいと感じるだろう。
救うも救わぬも神様が事前に決定しているとするキリスト教の予定説は、子どものころから聖書に慣れ親しんだ欧米人だってなかなか理解できるものではないし、すんなり信じられるものではない。ましてや、日本人においてをや、である。

それに比べれば、アッラーの救済は分かりやすい。
何しろ、生きている間に努力をすれば、それによって救われる可能性が高まるというのだから、そっちのほうが納得できるというものだ。
しかもアッラーの神は慈悲深いから、多少の罪を犯したところで許してくださる。つまり、模範は規範で厳然としていても、そこには救済の可能性が用意されているというわけだ。
さらに言えば、イスラム教の神はけっして欲望を否定しない。たしかに現世(げんせ)では規範はあるものの、来世には飲めや歌えの緑園が待っているというではないか。欲望を徹底的に否定する仏教などとは天と地の違いだし、こんなことはキリスト教の聖職者だって言わない。
こう考えていくと、まことにイスラム教は現実主義的で、しかも信者に甘い宗教であると言わざるをえない。

ところが、ところが。
そのイスラム教からは昔から暗殺者やテロリストを輩出してきた。
何しろ、古くは「暗殺教団」などと呼ばれた集団があったくらいだ。英語の暗殺者(アサシン assassin)の語源になったとされるのがこの教団で、そのメンバーたちは文字どおり「一人一殺(いちにんいっさつ)」でイスラムに敵対する人物を殺したと言われる。
今日における暗殺やテロの話は、今さら述べるまでもない。パレスチナで行なわれている例の自爆テロ、さらにアメリカで行なわれた同時多発テロでも、決行犯は自らの命を捨て、テロを行なった。
こうした暗殺やテロの歴史と、アッラーの慈悲深い救済像とが、どうして結びつくのか。クビをひねる読者も多いのではないか。
ところが、それは誤解もいいところ。
実はアッラーの慈悲深い救済にこそ、こうした暗殺者やテロリストの原点があるのだ。
では、いったいなぜ、そうなるのか。次の節で、その論理を明かしたいと思う。