じじぃの「カオス・地球_222_イスラム原論・第1章・仏教・釈迦の悟り」

お釈迦さまが悟りを開いた時の話 #お仏壇ちゃんねる #仏教#釈迦

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nsYEkWjdwOo

菩提樹の下で、釈迦は「法(ダルマ)」を発見した


仏教の開祖、釈迦とは?その生涯と“諸行無常”の真理をわかりやすく解説

東洋大学
●「煩悩」を克服するための釈迦の教え
釈迦が出家した理由は、老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探し求めたことにあります。これらを、釈迦は苦について四つの教え(四諦説)にまとめています。
それは、「人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦である」という真実、これを“苦諦(くたい)”と呼び、実際に次のような四つの苦しみ「四苦」(しく)として説明しています。

生……生まれたことによる苦しみ。
老……老いること、気力や体力が衰退し、自由が利かなくなる苦しみ。
病……病による苦痛を感じる苦しみ。
死……死ぬことへの恐怖や不安、苦しみ。
https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/culture/buddha

日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】

第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる

 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし
第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」
 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる より

第2節……「日本教」に規範なし

仏教は誰の教えか
日本における規範、というテーマを考えるとき、多くの人の頭に浮かんでくるのは仏教の戒律であろう。
これはまことに正しい連想である。
イスラム教やユダヤ教がさまざまな規範を設けているのと同様、仏教にも数多くの戒律がある。
仏教の規範は、ふつう「戒律」としてまとめて称しているが、本来、仏教では、戒と律を区別する。
すなわり「戒」とは釈迦が定めた悟りに至るための行動規範であり、もう1つの「律」のほうは出家者の共同体である「サンガ」(僧伽、そうぎゃ)における生活ルールである。
したがって、戒と律を比べれば、戒のほうが圧倒的に重要である。なぜなら、戒を破るということは、悟りへの道を放棄することに等しいからである。仏教では在家信者は五戒しかないが、出家者ともなると戒の数は僧250条、尼僧348条に上る。

これだけの戒があるのだから、仏教でも戒を専門に研究する学問として「律宗(りっしゅう)」が中国で生まれた。
ただ、イスラム教の規範と仏教の戒律の間には決定的な違いがある。
その違いを知るためには、まず「仏教とは何か」のアウトラインを知らなければならない。
だが、一口(ひとくち)に仏教と言っても、その宗派ごとに多岐にわたる。それをいちいち説明していけばキリがないので、ここでは仏教の、いわば「最単純モデル」を示すだけに止(とど)めておきたい。
読者の大多数は、仏教のことを「釈迦の教え」であると考えているだろう。
しかし、これは大きな誤解である。
たしかに仏教は釈迦ををって創始者とする。しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。ここが理解のポイントである。

では、仏教とはいったい誰の教えなのか。
【答え】誰の教えでもない。

仏教は思想ではない。それはむしろ科学に近い。

そのことを理解する補助線として、たとえば万有引力の法則を考えてみるとよい。
読者もご承知のように、万有引力の法則はニュートンが発見したわけだが、ニュートンが発見しようとしまいと、この法律は宇宙が作られたときからずっと存在していた。それこそアダムとイブの時代から、リンゴは木から地面に落ちていたわけである。ニュートンは、それを法則という形で提示したにすぎない。

仏教における釈迦の役割も、また同じである。

菩提樹(ぼだいじゅ)の下で、釈迦は「法(ダルマ)」を発見した。

法とは、すべてを貫く道徳法則である。

  人はなぜ生まれるのか。
  人はなぜ老いるのか。
  人はなぜ病むのか。
  人はなぜ死ぬのか。

釈迦は「苦(く)とは何か」を追求するために王族の生活を捨て、修行の生活に入った。その結果、かれが発見したのが、この「法」であった。すなわち「法」があるゆえに、苦は存在するということを釈迦は悟ったのである。
したがって釈迦が発見しようとしまいと、「法」は厳然としてそこに存在している。これは、ニュートン万有引力の法則の関係とまさしく同じである。
仏教を「釈迦の教え」とするのは正しくないという意味が、これでお分かりいただけるであろう。

イスラム教と仏教の決定的な違い
仏教においては、まず「法」があり、それを釈迦が発見した。これを一言で表わせば「法前仏後(ほうぜんぶつご)」ということになる。
これに対して、イスラム教やキリスト教などの啓典宗教は「神前法後(しんぜんほうご」という構造を持つ。
啓典宗教においては、何よりもまず存在するのは唯一にして絶対の神である。この神がこの世を作り、人間を作り、さらには法則も作ったというわけである。したがって、神が先で、法が後なのである。

法前仏後と神前法後――この差はとてつもなく大きい。
それが如実に現われているのが、規範にたいする姿勢である。
イスラム教における規範とは、神が決めた法である。
すべてを超越する神様が定めたのだから、これを勝手に人間が破ることは許されない。もし、破れば神の怒りを買うことにもなりかねない。下手をすれば、神は汝(なんじ)を救済してくださらないかもしれないぞ。
よって、規範は何が何でも守るべきであるし、守らなければ神に背(そむ)いたことになる。
イスラム世界では、宗教規範イコール社会の法であると述べたが、それは背景にこうした論理があるからに他ならない。

一方の仏教は、どうか。
そもそも仏教における「法」とは法則なのであるから、「守る」だの「守らない」だのなどといった話は最初からナンセンスなのである。
人間だろうが、イヌだろうが、ネコだろうが、はたまた天人天女(てんにんてんにょ)、さらには釈迦でさえ、「法」を廃止・変更することはできないし、誰も「法」に背くことはできない。法はすべてを超越しているのである。

よって仏教における法は、イスラムの法と違って規範をもたらさない。
では、いったい仏教における戒律とは何なのか。
結論を先に言ってしまえば、仏教の戒律はイスラム教の規範と違って、守る、守らないは基本的に本人の勝手であって、強制力をもたない。
破壊、つまり戒を破っても、釈迦が怒って現われることはないのである。