イスラム過激派 公開された処刑映像のキャプチャー画像
イスラム過激派が処刑映像公開、キリスト教への改宗を警告 ナイジェリア
2020年7月28日 クリスチャントゥデイ
イスラム過激派の武装グループが22日、ナイジェリア北東部ボルノ州で男性5人を処刑する映像を公開した。
5人のうち3人はキリスト教徒で、2人はイスラム教徒だとされている。武装グループは映像で、処刑はキリスト教改宗者に対する警告だとしている。迫害関連情報サイト「モーニング・スター・ニュース」(英語)が23日、伝えた。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/28312/20200728/islamic-extremist-militants-in-nigeria-execute-five-men.htm
第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」
第1節……「一神教」の系譜
第2節……予定説と宿命論
第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
第2節……苦悩する現代イスラム
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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』
小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行
今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。
第2節……予定説と宿命論――イスラムにおける「救済とは何か」
イスラムはなぜ「暗殺教団」を産んだのか
ここまでキリスト教とイスラム教の救済を比較してきたわけだが、さて、どちらの宗教の救済像にあなたは親しみを感じるだろうか。
おそらく、ほとんどの人はイスラム教のほうが分かりやすいと感じるだろう。
救うも救わぬも神様が事前に決定しているとするキリスト教の予定説は、子どものころから聖書に慣れ親しんだ欧米人だってなかなか理解できるものではないし、すんなり信じられるものではない。ましてや、日本人においてをや、である。
それに比べれば、アッラーの救済は分かりやすい。
何しろ、生きている間に努力をすれば、それによって救われる可能性が高まるというのだから、そっちのほうが納得できるというものだ。
しかもアッラーの神は慈悲深いから、多少の罪を犯したところで許してくださる。つまり、模範は規範で厳然としていても、そこには救済の可能性が用意されているというわけだ。
さらに言えば、イスラム教の神はけっして欲望を否定しない。たしかに現世(げんせ)では規範はあるものの、来世には飲めや歌えの緑園が待っているというではないか。欲望を徹底的に否定する仏教などとは天と地の違いだし、こんなことはキリスト教の聖職者だって言わない。
こう考えていくと、まことにイスラム教は現実主義的で、しかも信者に甘い宗教であると言わざるをえない。
ところが、ところが。
そのイスラム教からは昔から暗殺者やテロリストを輩出してきた。
何しろ、古くは「暗殺教団」などと呼ばれた集団があったくらいだ。英語の暗殺者(アサシン assassin)の語源になったとされるのがこの教団で、そのメンバーたちは文字どおり「一人一殺(いちにんいっさつ)」でイスラムに敵対する人物を殺したと言われる。
今日における暗殺やテロの話は、今さら述べるまでもない。パレスチナで行なわれている例の自爆テロ、さらにアメリカで行なわれた同時多発テロでも、決行犯は自らの命を捨て、テロを行なった。
こうした暗殺やテロの歴史と、アッラーの慈悲深い救済像とが、どうして結びつくのか。クビをひねる読者も多いのではないか。
ところが、それは誤解もいいところ。
実はアッラーの慈悲深い救済にこそ、こうした暗殺者やテロリストの原点があるのだ。
では、いったいなぜ、そうなるのか。次の節で、その論理を明かしたいと思う。
第3節……「殉教」の世界史――イスラムのジハードと中国の刺客、その相似性
なぜ、ムスリムたちは死を恐れないのか
イスラムの教えが踏みにじられたとき、ムスリムは命を捨ててもかまわないと考える。
その姿はまさに中国の刺客と瓜(う)二つである。
どこが、中国の刺客と似ているのか。
それは両者とも「永遠に変わらぬもの」が存在することを信じるからである。
刺客においては、それは歴史である。中国人にとっての歴史とは、永遠に変わらぬ法則のようなものである。
一方のムスリムにおいては、
言うまでもなく、マホメットの教えであり、コーランである。
コーランのために命を捨てる。その偉業は永遠に讃えられるだろう。イスラムの教えは永遠だからだ。この世にムスリムがいるかぎり、最後の審判の日まで彼の自己犠牲はけっして色あせることはない。
しかも、その確信はコーランによってさらに強化される。
なぜなら、アッラーはコーランで次のように述べているからである。
「アッラーの路に斃れた人々のことを死人(しびと)などと言ってはならぬ。否、彼らは生きている。ただ汝らにはそれがわからないだけのこと」(2-149)
アッラーのために戦い、すなわち聖戦(ジハード)で倒れた者は死んだことにならない。いや、生きているのだ。
このことは何を意味するか。
最後の審判のとき、イスラム教徒はすべて完全な肉体を与えられ、蘇(よみがえ)ることはすでに紹介した。その完全な肉体で、彼らは神に裁(さば)きを受けるのである。
だが、イスラムの教えを守るために死んだ者は、すでに生きて緑園(りょくえん、天国)に入ることができる。
そのことを、このコーランの1節は示唆しているのである。
この問題は神学的に見れば、実はいろいろな議論の起きるところなのだが、少なくともジハードで死んだ人は間違いなく緑園に入れる。これについては疑問の余地がない。
イスラム教を守るために死ねば、単に歴史の中で永遠の名を刻むだけではない。その人は緑園で、正真正銘(しょうしんしょうめい)、本物の永遠の命を与えられるのである。
すでに述べたように、本来のイスラム教はけっして侵略的な宗教ではない。その点、キリスト教とは大違いだ。ムスリムは異教徒だからという理由で、拍手を排撃したりはしない。
だが、そのイスラム教も、ひとたびアッラーの教えが踏みにじされたり、異教徒の側から攻撃を受けると命が惜(お)しくなる。
敬虔なムスリムであればあるほど、その人物にとっては現世の幸福も富も名誉も関係なくなるのである。その激しさは、ことによると荊軻(けいか)や聶政(じょうせい)、予譲(よじょう)を凌(しの)ぐものになる可能性だって大いにあるのだ。
長い歴史を持つイスラムの過激派たち
世のマスコミは、テロを行なうイスラム教徒のことをひとくくりに「イスラム過激派」と呼ぶ。
過激派と聞くと、いかにも日本赤軍とかその他のゲリラと同様、近年に生まれてきた運動であるように思いがちだ。しかしそれは大きな誤解というものである(もう1つ、「イスラム原理主義」という名称もある。これもまた問題の多い呼び名である。
すでに述べてきたことからも分かるように、イスラム教はその本来の教えの中に、いわゆる「過激派」を産み出す土壌を持っている。
マホメットが最終預言者で、コーランこそが最後の啓典である。この考え方を素直に受け止めれば、マホメットの生きていた時代が理想であり、その理想を守りつづけるのがムスリムの義務であるということになる。
ところが、現実にはそうはいかない。たとえどんなに抵抗しようとも、社会は変化し、時代は移ろっていくからである。
すると、そうした変化に対して、「これはけしからん。マホメットの時代に戻るべきだ」と考える人が当然現われてくる。そして「正道(せいどう)」に戻すには、どんな手段も許されるはずだと考える人が出てくるようになる。
それがすなわち過激派である。
したがって、イスラム教においては、そのごく初期から過激派が存在した。過激派の歴史は今に始まったのではないのだ。