じじぃの「カオス・地球_232_イスラム原論・第2章・中国の殉教者」

【ゆっくり歴史解説】 滅びゆく王朝に殉じた忠義の士 文天祥 【南宋

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xsPyUOLpWJY

中国の殉教者


文天祥(ぶん てんしょう)

ウィキペディアWikipedia) より
文天祥は中国南宋末期の軍人・政治家。
滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。
張世傑や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

刺客列伝

ウィキペディアWikipedia) より
中国の歴史書史記』の列伝の一つ。曹沫、専諸、豫譲、聶政、荊軻の5人が取り上げられている。

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日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」

 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」 より

第2節……予定説と宿命論――イスラムにおける「救済とは何か」

イスラムはなぜ「暗殺教団」を産んだのか
ここまでキリスト教イスラム教の救済を比較してきたわけだが、さて、どちらの宗教の救済像にあなたは親しみを感じるだろうか。
おそらく、ほとんどの人はイスラム教のほうが分かりやすいと感じるだろう。
救うも救わぬも神様が事前に決定しているとするキリスト教の予定説は、子どものころから聖書に慣れ親しんだ欧米人だってなかなか理解できるものではないし、すんなり信じられるものではない。ましてや、日本人においてをや、である。

それに比べれば、アッラーの救済は分かりやすい。
何しろ、生きている間に努力をすれば、それによって救われる可能性が高まるというのだから、そっちのほうが納得できるというものだ。
しかもアッラーの神は慈悲深いから、多少の罪を犯したところで許してくださる。つまり、模範は規範で厳然としていても、そこには救済の可能性が用意されているというわけだ。
さらに言えば、イスラム教の神はけっして欲望を否定しない。たしかに現世(げんせ)では規範はあるものの、来世には飲めや歌えの緑園(りょくえん、天国)が待っているというではないか。欲望を徹底的に否定する仏教などとは天と地の違いだし、こんなことはキリスト教の聖職者だって言わない。
こう考えていくと、まことにイスラム教は現実主義的で、しかも信者に甘い宗教であると言わざるをえない。

ところが、ところが。
そのイスラム教からは昔から暗殺者やテロリストを輩出してきた。
何しろ、古くは「暗殺教団」などと呼ばれた集団があったくらいだ。英語の暗殺者(アサシン assassin)の語源になったとされるのがこの教団で、そのメンバーたちは文字どおり「一人一殺(いちにんいっさつ)」でイスラムに敵対する人物を殺したと言われる。
今日における暗殺やテロの話は、今さら述べるまでもない。パレスチナで行なわれている例の自爆テロ、さらにアメリカで行なわれた同時多発テロでも、決行犯は自らの命を捨て、テロを行なった。
こうした暗殺やテロの歴史と、アッラーの慈悲深い救済像とが、どうして結びつくのか。クビをひねる読者も多いのではないか。
ところが、それは誤解もいいところ。
実はアッラーの慈悲深い救済にこそ、こうした暗殺者やテロリストの原点があるのだ。
では、いったいなぜ、そうなるのか。次の節で、その論理を明かしたいと思う。

第3節……「殉教」の世界史――イスラムのジハードと中国の刺客、その相似性

この世の栄華よりも、「歴史」による救済を選んだ男
だが、奮戦むなしく、文天祥は囚(とら)われの身となって、皇帝フビライの前にひきすえられた。
文天祥、お前は中国人にしては見込みがある」
大人しく降伏してフビライに臣下の礼を執(と)れば、お前を丞相(じょうしょう、首相)にしてやると言うのである。
過去、これだけの厚遇を受けた捕虜が世界のどこにいただろう。
20世紀の話に置き換えれば、大東亜戦争に負けた日本の首相を捕まえて、いさぎよく降伏すればお前をアメリカの大統領にしてやるというようなものだ。
さて、文天祥はこれにどう答えたか。
エスと答えれば、栄耀栄華(えいようえいが)は思いのまま。何しろ、世界帝国・元の首相の地位が待っているのである。
ノーと答えれば、即刻その場で殺されても文句は言えない。クビと胴体は離ればなれになり、大地に転がるのが関の山。
これが誰がどう見ても、イエスと答えるに決まっている。
ところが、忠臣・文天祥はこの申し出を断固拒絶した。
このときの心境を文天祥は詩に託して、こう述べている。
「人生、古より誰か死無からん。丹心を留取して汗靑を照らさん」(零丁洋の詩)
丹心とは真心(まごころ)、汗青とは歴史のこと。
すなわち、「人間はいずれ死ぬ。同じ死ぬなら、忠義の心を留めて歴史に照らして、後世の模範となりたい」というのが彼の覚悟であったわけだ。
我々はここにも中国人の「歴史教」を見ることができる。
彼は現世における幸福より、歴史による救済をこそ望んだのだ。
獄(ごく)にあること3年、彼はついに処刑された。まさに文天祥は、歴史教に殉じた”中国的殉教者”であった。

中国とイスラムの意外な共通点
司馬遷(しばせん)の「刺客列伝」は後世に多大の影響を与えた。自らの命を捨ててまで、永遠の大義に身を投じた刺客たちの姿は、演劇や詩の題材としてしばしば取り上げられた。予譲(よじょう)や、荊軻(けいか)、聶政(じょうせい)たちの生き方は中国人をして感動せしめる。
ところが、その感動を欧米人たちは本質的に理解できない。
彼らにとってみれば、暗殺者は社会の進歩を阻む犯罪者にすぎないからである。
なぜ、わざわざ天下の大歴史家である司馬遷が、このような犯罪者の伝記を『史記』の中に書かねばならなかったのか。その理由は、キリスト教的な、キリスト教的な歴史観からは導き出せないのである。

ところが、その「刺客列伝」に共感を覚えることができる人たちが、中国人の他にもいるのである。

その人たちとは、他ならぬムスリムだ。

敬虔なムスリムなら、予譲や荊軻、聶政たちの心情も覚悟もきっと理解できるに違いない。彼ら刺客が命を賭(と)して使命を果たすその姿に感動できるのが、イスラム教徒なのである。
なぜなら、イスラム歴史観もまた中国と本質的に同じだからである。
すなわち、イスラム社会においても変化は排すべきものであり、過去からの連続性をこそ重視する。過去の延長線上に現在があり、未来があるというわけである。

たしかに、イスラム教はキリスト教と同じく「最後の審判」の到来を説く。
最後の審判来たりせば、アッラーは緑園か地獄に人々を送りたまう。そこで待っている生活は、現世(げんせ)とはまったく違い原理に基づく。
となれば、キリスト教と同様、レヴォリューションの思想が生まれてきそうなもの。
ところが、イスラム教からは絶対にユダヤ教キリスト教キリスト教と同じ歴史観は生まれてこないのである。
それはなぜか。
その理由は、マホメットが「最後の預言者」とされることと強く結びついている。