じじぃの「カオス・地球_227_イスラム原論・第2章・コーランか、剣か」

【朗読】コーランを知っていますか

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=mNwu34_PI8g


日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」

 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」 より

第1節……「一神教」の系譜 ――キリスト教の「愛」とアッラーの「慈悲」を比較する

コーランか、剣か」は、とんだ大ウソ、大誤解
何度も繰り返すが、イスラム教においては「信仰の自由」が最初から確保されていた。
ヨーロッパで信仰の自由が生まれるには、宗教戦争という体験を必要とした。長きにわたったカトリックプロテスタントの戦争で、たくさんの血が流されたのをきっかけに信仰の自由という概念が生まれてくるのだが、それが確立するには、なお長い時間が必要だった。
ところがイスラムでは、最初から信仰を他人に強制してはならないとされていた。
あくまでもイスラム教は平和的に布教を行なうのである。
ところが、こうした実態とは裏腹にイスラムに関する誤ったイメージが欧米はもとより、日本でも根強い。

その最たる例が「コーランか、剣か」。

イスラム教徒は剣とコーランをひっさげて、全世界を荒らし回った。被征服者に県を突きつけて、コーランを信じなければ殺す」と脅(おど)かした。
これは有名な話だが、考えてみるとこんなナンセンスもない。
イスラム教徒はコーランと剣を両手に携(たずさ)えていた。
もし、これが真実だとすれば、どちらの手に剣を持ち、どちらの手にコーランを持っていたのか。これを考えなければならない。
イスラム教徒にとっては左手は「不浄(ふじょう)の手」なのだから、コーランを左手に持つわけにはいかない。
とすると、右手にコーラン、左手に剣ということか。
しかし、これで戦争をするのは、ちょっとむずかしくはないか。
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まあ、これは半分冗談だが、ことほどさように「コーランか、剣か」というのは信用できない話なのである。おそらくキリスト教徒がプロパガンダとして作ったものに違いない。

現実のイスラム教は、キリスト教ユダヤ教といった啓典宗教以外に対しても、ひじょうに寛容である。
その証拠に中国のイスラム教徒の中には、儒教を研究して大学者になった人さえいる。信仰さえちゃんとしていれば、別に儒教の研究をしても差し支えない。このセンスをヨーロッパ人が持てるようになったのは近代に入ってからだが、それよりずっと前からイスラム儒教の学者を産み出していたのである。

イスラムは断じて偶像崇拝を許さない
前にも述べたように、イスラム教は当初からどんどんその影響を周辺諸国に及ぼし、ついには世界中に広がるようになった。
その過程で、各地にイスラム教国が作られたわけだが、そこに住む人たちに改宗を迫ったりはしなかった。もちろん布教はするものの、それだけである。
ただし、イスラム教に改宗しなかった場合、市民としての権利には制限を受けたし、余計に税金を納めなければならないという義務が生じたりした。しかし、これをもって、異教徒への弾圧とするのは言いすぎだろう。

イスラム世界においては、規範イコール法であり、社会生活においてもイスラム法が適用される。

しかし、異教徒にはそのイスラム法がそのまま適用できないのだから、イスラム教徒と同じ扱いをすることができない。したがって、権利や義務の面に関して差別が生じるのはやむをえないと言える。

また、イスラム教徒の場合、五行(ごぎょう)に基づく喜捨(きしゃ)の義務がある。

これが税金の役割を果たしているわけだが、非イスラム教徒にはその義務はないのだから、何らかの形でより多く税金を払わせないと、これは逆差別になってしまう。
というわけで、イスラム教徒政権下の異教徒が弾圧されていたとは、にわかに断定できないのである。
ただ、1つだけ、イスラム教徒が異教徒に対して「これだけは譲(ゆず)れない」とする問題がある。
偶像崇拝である。

アッラーの神はたしかに慈悲深い神ではあるが、ただ1つ、これだけは許さないというのが偶像を刻んで拝(おが)むという行為である。

これは啓典宗教すべてに共通するタブーである。
モーセに対して、神は十戒を与えたが、その中で神は「いかなる像も造ってはならない」と命じた。
猫や牛などの像を刻んで拝むのは、エジプト人などが行なう習慣である。そもそも神は万物を作った存在であるのに、神の被造物の1つにすぎない像を拝むなど、途方もない涜神(とくしん)行為である。
だから、古代イスラエル王国において、イスラエル人たちは偶像を拝まず、その代わりにモーセ十戒を刻んだ意思を運んだ箱(契約の箱、聖櫃(せいひつ)とも)を神殿において、それを拝んだ。

イスラム教徒もまた、絶対に偶像を拝まない。イスラムの聖地であるカーバ神殿(メッカ)に安置されているのは聖なる黒石(こくせき)である。

ちなみに、コーランによれば、カーバ神殿を造ったのはアブラハムとその息子イシュマエルだとされる。

アブラハムは神は、その息子イサクの直系の子孫に「約束の地」華南を与えたわけだが、実はこの啓示のとき、まだイサクは生まれておらず、庶子(しょし、正妻ではない女から生まれた子)のイシュマエルしかいなかった。
そこで神にアブラハムが「どちらの子でしょうか」と尋(たず)ねたら、「これから生まれてくるイサクである」と答えたとある。
これでは、あまりにもイシュマエルがかわいそうだと思ってしまうが、その代わり神はイシュマエルにも祝福を与えてくださった。

このイシュマエルの子孫がアラブ人になったというのが、イスラム教の考えである。