じじぃの「ファーブル・昆虫記・科学の文学性とは?科学する心」

What Gives the Morpho Butterfly Its Magnificent Blue? | Deep Look

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=29Ts7CsJDpg

Glasswing Butterflies Want To Make Something Perfectly Clear | Deep Look

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LYxTyMF9k_4

グラスウィング・バタフライ


地球ドラマチック 「チョウが人類を救う? ~小さな体に秘めた驚きのパワー~」

2024.1.27 NHK
最も身近な昆虫の一つである、チョウ。いま、人類を様々な危機から救う可能性のあるスゴイ昆虫として世界中の研究者から注目を集めている。チョウの驚きのパワーに迫る!

チョウは1億年以上前から地球に存在し、さまざまな環境の変化に適応しながら、独自の進化を遂げてきた。
鮮やかな色彩や撥水能力をもつ羽、優れた体温調整能力など…チョウの能力を応用すれば、医療現場や環境対策などの分野で人類が直面する課題を解決できるのではと、いま研究者たちの注目を集めている。革新的な医療素材から、水上都市を支える沈まない金属まで、チョウに学ぶ無限の可能性に迫る(仏独米2022年)#SDGs

●透明な羽を持つグラスウィング・バタフライ
薄いガラスのように繊細で、まるで空気のように軽やかだ。
https://www.nhk.jp/p/dramatic/ts/QJ6V6KJ3VZ/episode/te/WLRKZWGPYW/

『科学する心』

池澤夏樹/著 集英社インターナショナル 2019年発行

第8章 『昆虫記』と科学の文学性 より

科学に少し文学が混じる
ファーブルは博物学者だろうか。
博物の博は広いという意味だ。広くモノを集めて研究する。この言葉の背景に中国文化圏でならば本草学を見て取ることもできる。こちらはもっぱら薬用を目的として始まった植物学。どちらにしても生きた生物を相手にするという印象は薄い。

ヨーロッパには自然史という言葉がある。

Natural Historyの直訳で博物学はその意訳ということになるだろうか。自然界の姿を観察によって捉え、それを記述することを旨とする。だからフランシス・ベーコンは「自然史は記憶により記述し、自然哲学は理性によって原因を探究する」と言った。Natural Philosophyの方が分析的なのだ。

ファーブルはたしかに観察によって昆虫の生態を明らかにし、それを『昆虫記』に記述したけれど、ここでぼくが生態という言葉を使ったことでもわかるとおり、彼の仕事では生きたものを相手にするという局面が強調されており、ツチハンミョウとスジハナバチの例のように、種どうしや環境との関係を明らかにすることが多い。その意味では、彼の時代にはなかった言葉かもしれないが博物学よりはむしろ生態学の方が適合するのではないか。あるいは動物行動学(ethology)の方がファーブルにふさわしいか。

自然はあまりに広大無辺であって、その観察と記述にも果てがない。だからファーブルの偉業はまずもってその分量で対峙する者を圧倒する。なんと多くの時間がフィールドで費やされ、なんとと多くの言葉がそれを書き記すために用いられたことか。

それに対して、メンデルがエンドウ豆を相手に行なった簡単な実験は生物ぜんたいを貫く法則の発見に繋がった。これがベーコンが言うところの自然哲学の具体例である。現代の天文学などではこの2つは渾然一体となっていて、巨大望遠鏡が集める膨大なデータをコンピューターを用いて解析し、宇宙の歴史や法則を導き出す。

ファーブルに話を戻せば、彼はダーウィンの進化説に反対だった。第3巻下には「進化論への一刺し」という章がある。さまざまな生態を持つハトが先祖の一種から進化によって分かれて今に至ったとは考えられない、というのが彼の主張で、そうなるとハチのすべてに最初からそれぞれの環境に応じた本能が配布されていたということになる。

ダーウィンの進化説は実際なかなか受け入れがたい。目の前のいるツチハンミョウの行動は精妙で、これが突然変異と自然選択という簡単な原理で実現するとは信じがたいのだ。その一方で本能には突発的な事態の変化に対する応用力はない(第2巻下の「昆虫の心理についての短い覚え書き」がこの件について詳しい)。ファーブルはそういう例を山ほど見ていたから種が変化するとは信じられないと考えたのだろう。

しかし生物たちにはとても長い時間が与えられていた。そして昆虫の場合、速やかに進化する条件が備わっていた。
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自然は法則に従って意思なく運営されている。進化はハナカマキリのような精緻きわまる擬態を生み出すし。それはたしかに意図あっての合目的的な彼らの努力の成果と見えがちだが、それを言い出すともう創造主まではあと一歩。科学の側に留まるにはたくさんの変異を繰り出してその一つ一つを環境との適性で検証し、合ったものを残すという、ある意味では非情な科学の理論で説明しなければならない。

それでも残る我々の感情の部分を舘野鴻(絵本作家、生物画家、絵本『ツチハンミョウ』など)は「それを束ねている温かなもの」と言ったのだろう。だから僕たちはファーブルのように、坂上昭一(昆虫社会学者、『昆虫比較社会学』など)のように、科学に少し文学が混じるのを好ましいことと思うのだ。

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じじぃの日記。

池澤夏樹著『科学する心』という本に、「『昆虫記』と科学の文学性 」というのがあった。

「ファーブルに話を戻せば、彼はダーウィンの進化説に反対だった」

確かに、蝶(チョウ)や蛾(ガ)など昆虫の生態を見ると、ダーウィンの進化説は素直に受け入れ難い。

先日、NHK 地球ドラマチック 「チョウが人類を救う? ~小さな体に秘めた驚きのパワー~」を見た。

●透明な羽を持つグラスウィング・バタフライ
薄いガラスのように繊細で、まるで空気のように軽やかだ。

普通、青色の羽を持つ蝶の場合、太陽からの光を受け、青を除いた色は吸収され、青色だげが反射される現象だ。

しかし、「モルフォチョウ」は羽に色(色素)がなく、毯の目のようなギザギザになっていて色素がないのに青色がついているように見える(構造色)。

ガラスのような透明な羽をもつチョウの仲間「グラスウィング・バタフライ」が注目を集めている。

この蝶の羽はすべての色を透過させてしまう。

ダーウィンが生きていた時代、DNA(遺伝子)がまだ発見されていなかった。

1976年刊行の、リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』は世界的ベストセラーとなった。

利己的遺伝子とは、自然淘汰されるものは個体ではなくその遺伝子であるという。

ダーウィンの進化論は、利己的な遺伝子で説明がつくのだとか。

透明な羽をもつチョウも、利己的な遺伝子のなせる技なのだろうか。