じじぃの「カオス・地球_225_イスラム原論・第2章・旧約聖書・ヨブの苦しみ」

ヨブ記 Job【概観】

動画 YouTube
このビデオでは、ヨブ記の文学的構造とテーマを概観します。
ヨブは、人間の苦しみと神の関係の難しい問題を探り、神の知恵とご性質を信頼するように私たちを招きます。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MTDMgFlSrY0


日本人のためのイスラム原論(新装版)

【目次】
第1章 イスラムがわかれば、宗教がわかる
 第1節……アッラーは「規範」を与えたもうた
 第2節……「日本教」に規範なし

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」

 第1節……「一神教」の系譜
 第2節……予定説と宿命論
 第3節……「殉教」の世界史
第3章 欧米とイスラム―なぜ、かくも対立するのか
 第1節……「十字軍コンプレックス」を解剖する
 第2節……苦悩する現代イスラム

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『日本人のためのイスラム原論(新装版)』

小室直樹/著 集英社インターナショナル 2023年発行

今もなおイスラムはなぜ欧米を憎み、、欧米はイスラムを叩くのか?
この本を読めばイスラムがわかり、世界がわかる。
稀代の大学者、小室直樹が執筆した、今こそ日本人必読の書。

第2章 イスラムの「論理」、キリスト教の「病理」 より

第1節……「一神教」の系譜 ――キリスト教の「愛」とアッラーの「慈悲」を比較する

アブラハムの途方もなく理不尽な命令
古代イスラエル人が信じた神が、いかに理不尽で、いかに恐ろしい神であったか。
その実例は旧約聖書の中に掃(は)いて捨てるほどある。
たとえば、歴代の預言者を見るがよい。
アブラハムに始まる預言者たちの中で、神の言いつけに従って幸福になれた者はどれだけいるか。むしろ、不幸になった預言者のほうが圧倒的多数である。いや、全預言者が不幸になった。
モーセは神の命令に従って、奴隷になっていたイスラエルの人々を救い出した。しかし、彼はそれで豊かになったわけでもなければ、幸せになったわけでもない。流浪(るろう)の旅の途中であえなく死んでしまう。神はちっとも、これといったご褒美(ほうび)など与えてはくださらなかった。

カナンの地を与えられたアブラハムはどうだったか。
彼に対して、神は恐るべき命令を発した。

  「君の子、君の愛する独子(ひとりご)、イサクを連れてモリヤの地に赴(おもむ)き、そこでイサクをわたし(神)が君に示す1つの山の上で燔祭(はんさい)として捧(ささ)げなさい」(「創世記」22-2)

つまり、子羊の代わりに我が子を火で焼いて、神への生贄(いけにえ)にしろというわけだ。
これに対し、アブラハムはどうしたか。
神に反問(はんもん)することなく、イサクに薪(たきぎ)を背負わせ、自分は火と刀を持ってモリヤの地に向かった。アブラハムは神を信仰することに篤(あつ)かったから、けっして神に反抗しなかったのである。

モリヤの地に向かう途中、無邪気にイサクが尋(たず)ねた。
「お父さん、火と薪の用意はあるのに、捧げもの子羊はどこにいるの?」
すると父アブラハムはこう答えた。
「神ご自身が燔祭の子羊を用意なさるのだろうよ」
このときのアブラハムの胸中(きょうちゅう)はいかばかりか。涙なしには語れない。さぞや、苦悶に満ちていたことであろう。
だが、アブラハムは神に逆らうわけにはいかないのである。
結局、このときは直前になって神から中止命令が出たのでイサクは救われるのだが、神がアブラハムにあえて試練を与えた事実に変わりはない。
神は最も信仰深い人にさえ、苦しみをもたらす。その人を試すのである。

ヨブはなぜ不幸に苦しまなければならなかったか
しかしアブラハムの苦しみも、ヨブに比べれば、まだ軽いと言える。

  「ウツの地にヨブという名の人がいた。その人は全くかつ直(なお)く、神を畏(おそ)れ、悪を遠ざけた」(「ヨブ記」1-1)

つまりヨブは、非の打ちどころがない、模範的な信者であった。
ところが、このヨブに対して神がなさしめたのは、まさに不幸の連続。
まず最初にヨブガ所有していた羊やラクダ、牛、ロバが暴漢によって虐殺された。この結果、彼は無一文になったのだが、これはすべて神の計(はか)らいであった。
次に彼の息子や娘たちが集まって食事をしていたら、突風が吹いて家が潰(つぶ)れてしまった。この結果、彼は子どもたちを全員失った。これもまた神が計らったことである。

しかし、これで不幸が終わったわけではない。災(わざわ)いはついにヨブの体に振りかかった。彼の体中に腫(は)れ物ができて、彼を悩ましたのである。もちろん、これも神が彼に与えた不幸である。

模範的な信者でありながら、なぜ神はこのような災いを与えたのか。

その理由が理解できるかどうかが聖書理解の分かれ目であると言ってもよい。

なぜ、ヨブはここまで不幸にならなければならないだろう。
ひょっとして、ヨブは自分でも気が付かないうちに罪を犯したのでは……。だから、神が罰を与えたのではないか。あるいは、子どもたちに罪を犯した者があったから、こんな不幸が起きたのではないか。

これらの解釈は、いずれも間違いである。
なぜなら、こうした解釈はいずれも因果律を基底に据(す)えているからである。

すでに述べてように、仏教では因果律を前提にする。
つまり、苦しみにはかならず、その原因があると考える。だから、原因を探り出すことに成功し、その原因をなくすことができれば、苦しみを取り除くことができる。
これが釈迦の悟りであった。

だが、ヨブ記はこの因果応報の考え方を徹底的に否定する。

この世の苦しみは、因果律によって生まれるのではない。

全能の神がそうと決めたから、苦しみが災いが来るだけのこと。
その証拠に、ヨブのような正しい人(義人、ぎじん)であっても、神は災いを与えたではないか。
神は因果律に縛(しば)られない。神は万能であって、いかなる決断を下すこともできるし、いかなる悪をなすこともできる。