じじぃの「歴史・思想_309_ユダヤ人の歴史・始祖アブラハム」

Stories Of Abraham | Animated Children's Bible Stories | Holy Tales

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Abraham in Bible


ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

マクペラのほら穴の象徴

ユダヤ人は歴史上最もねばり強い民族である。ヘブロンを訪ねればそれがわかる。エルサレムから南へ20マイル、ユダ丘陵地帯を3000フィート登って辿り着いたヘブロンの町、そのマクペラの穴の中に、族長たちの墓がある。古代からの言い伝えによれば、ユダヤ教創始者でありユダヤ民族の祖であるアブラハムの遺骸は、ほら穴の中に位置するそれ時代きわめて古い墓の中に納められている。アブラハムの墓と隣合わせで妻サラの墓があり、建物の中には息子イサクとその妻リベカの一対の墓がある。中庭をはさんだ反対側には、アブラハムの孫ヤコブとその妻レアのやはり一対の墓が、建物のすぐ外にはヤコブと彼が愛した妻ラケルの息子ヨセフの墓がある。民族の記憶をさかのぼれる限りさかのぼって行きつく所がここであり、4000年にわたるユダヤ人の歴史はまさにこの場所で始まった。

よそ者の寄留者

小さな集落でなされたこの取引(アブラハムヘブロンで土地購入のため交渉)は、記念すべき出来事であった。ただ単に所有権の移転が成立しただけでなく、当事者の地位が変化したからである。儀式的な挨拶、とぼけ、虚礼、かけひき、これらすべてを聖書はみごとに描写している。しかし読者が最も心打たれるのは、そして読者の心に長く残るのは、アブラハムが取引を決めるにあたって述べる、鋭く短い言葉である。「わたしはあなたたちとともにいるよそ者、寄留者です」(創世記23章4節)。そして取引が完了したとき、その土地はそこの人々の所有をはなれて「たしかにアブラハムの所有となった」ともう一度念が押される(23章20節)。ユダヤ史上最初の出来事において、この民が抱く心許(もと)なさと不確かさが、驚くほど率直に語られている。
このアブラハムなる人物は、いったい誰だったのだろう。そしてこの人物は、どこからやってきたのであろうか。アブラハムが実在した唯一の証拠は、創世記および関連する聖書の記述だけであるが、これらの書物は彼が活躍したと考えられる時代から、おそらく1000年以上のちに書かれたものである。聖書の歴史的信憑性については、この200年間、激しく議論されてきた。ユダヤ教キリスト教双方の学者の多くは、文字どおりの事実としてではなく、象徴や比喩(ひゆ)として理解されるべき記述が、特に初めのいくつかの書に多数見られると、何世紀にもわたり主張してきた。にもかかわらず1800年頃まで、学者も一般人もほとんどの人々が、正統派の立場を取っていた。つまり、聖書の記述は神の啓示を受けて書かれたものであり、全般的にも部分的にも、すべて真実であるというのである。
しかし19世紀初頭から、新しい、より批判的な立場が、主としてドイツの学者によって唱え始められる。彼らは旧約聖書の歴史的価値を否定し、その大部分を宗教的神話とみなした。旧約聖書の最初の五書は、ヘブライの諸部族が長年にわたって口承してきた伝統であり、バビロン捕囚以降紀元前1千年紀後半に、書き物としてまとめられたと説明した。これらの口承伝説は、イスラエル人の指導者たちが信じていた宗教的信条、慣行、儀式に歴史的正当性と宗教的権威を与えるため、注意深く書き直され、まとめ直され、脚色されたのである。聖書初期の文書に登場する人物は、実際に存在したのではなく、神話上の英雄もしくは全部族を代表する合成された人物像に過ぎないという。
このように考えれば、アブラハムやその他の族長だけでなく、モーセやアロン、ヨシュアやサムソンも、すべて神話の世界の人物であり、ヘラクレスペルセウスプリアモスアガメムノンオデュッセウスアエネアスと同列ということになる。

道徳的洪水物語

洪水に関する記述はまた、神との契約に初めて触れ、カナンの地への最古の言及も行っている。これらの主題は洪水後の民族表を経て族長たちが現われるとともに、一層強く現れはじめる。そこで再び、いったいアブラハムは誰なのか、どこから来たのかを考えてみよう。創世記11章から25章の記述によればアブラハムはもともとアブラムという名で、遠くノアを祖先とする者であった。カルデアのウルから最初はハランへ移り、それからカナン各地を転々としたあと、飢饉の間エジプトへ身を寄せ、そしてヘブロンをついの住みかとし、そこで初めて土地を購入したとされている。
聖書の記述は、おおむね歴史的事実とみていい。ただしカルデア人への言及は時代的に合わない。カルデア人メソポタミア南部に侵入したのは、紀元前2千年紀の終わりになってからである。アブラハムはもっと前、2千年初めの時代に生きていた。カルデアは紀元前1千年紀の聖書の読者にウルを紹介するため、挿入されたのであろう。しかしアブラハムが聖書の記述どおり、ウルからやってきたことは間違いがない。
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アブラハムがウルを出発したのは、この王(ウル第3王朝のウルナンム)による統治の後であった可能性が高い。だからこそカナンの地へ、天にも届くジグラトとははるか昔に起った洪水の話を携(たずさ)えていったのだろう。彼は一体いつ、この旅に出たのであろうか。

族長たちの年代を確認するのは、かつて考えられていたほど不可能ではない。もちろん創世記にある洪水前の年代記述は、事実とは言いがたく、単なる説明に過ぎない。しかし聖書に現われる系図が、古代の他の王名表と比べて著しく信憑性に欠けるというわけでもない。紀元前250年頃、ヘレニズム時代のエジプトに生きた神官マネト等が残したファラオの系図によって、われわれはかなりの精度で紀元前3000年頃のエジプト第1王朝までさかのぼれる。マネトとほぼ同時代のバビロニアの神官ベロソスは、同じようなメソポタミアの王名表を残しており、その他にも考古学者が掘り出した系図がいくつかある。創世記における洪水以前と以後の名前を比較検討すると、最も古い形のヘブライ語聖書(マソラ本文)、ギリシャ語訳聖書(70人訳)、サマリア語の五書で年代に差があるものの、それぞれ10ノ名前からなる2つの系図が見つかる。聖書以外の記録にも同様の分け方が見られ、聖書の現れる人物の長寿の記録は、洪水前にシュルパクを治めたシュメールの王たちの年齢と似ている。最初期の系図は、洪水前の王として8人しか挙げていないが、ベロソスは10人掲げており、創世記の記述と一致する。ベロソスによるメソポタミア王名表と聖書の系図の間をつなぐのが、おそらくアブラハムであり、彼はこの伝承を携えているを後にしたのであろう。

始祖アブラハム

偉大なユダヤの史家サロ・バロンは、アブラハムを、隆盛をきわめていた月神祭儀が一神教の原始的な形態に変容しかかっていた文明の中心地からやってきた、原初的一神教徒と考える。アブラハムの家族の名前には、サラ、ミカ、テラ、ラバンなど、月神礼拝と関係あるものが多い。ヨシュア記の中には、アブラハムの祖先が偶像を崇拝していたことを示す、謎に満ちた記述がある。「アブラハムの父テラは(中略)他の神々に仕えていた」(24章2節)。聖書の中で他のどこにも記載されていない古い伝承を書き残したイザヤ書の一節は、神が「アブラハムを購(あがな)い給うた」と記している(イザヤ書29章22節)。セム系諸民族が肥沃なる三日月帯を西へ向かって移動したのは、通常、経済的逼迫(ひっぱく)によるものだと説明される。しかしアブラハムを動かしたのは宗教的衝動であったことを理解する必要がある。彼は偉大なる遍在する全能の神からの呼びかけを聞き、信じ、それに応えた。一神教の観念がアブラハムの心の中で完全に形を成したのではないにしても、彼がそれをめざしていたこと、そして精神的に行き詰まったメソポタミア社会を嫌ってそこを離れたと考えることは、十分可能である。