じじぃの「歴史・思想_311_ユダヤ人の歴史・イスラエル12部族」

Where are the Ten Lost Tribes of Israel?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pjzKLZ55jLA

list of 12 Israel tribes

Why was Dan removed from the list of 12 Israel tribes in Rev 7? [duplicate]

Christianity Stack Exchange
https://christianity.stackexchange.com/questions/14725/why-was-dan-removed-from-the-list-of-12-israel-tribes-in-rev-7

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

イスラエル12部族 より

民族の名祖となった指導者ヤコブ、すなわちイスラエルは、理論上同民族を構成する12の部族の父祖でもあった。
聖書の記述によれば、ルベン、シメオン(レビ)、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、エフライム、マナセの各部族は、ヤコブとその息子ヨセフから発した(創世記35章22節後半ー26節および48章5節)。しかし前述のとおり、非常に古い起源をもつ「デボラの歌」は、10の部族しか名を挙げていない。すなわちエフライム、ベニヤミン、マキル、ゼブルン、イサカル、ルベン、ギレアド、ダン、アシェル、そしてナフタリである(土師記5章)。「デボラの歌」は戦いの情景を描写したものであって、シメオン、レビ、ユダ、ガドは戦闘に参加することが予定されていなかったため省かれた可能性がある。12という数は慣例に沿ったものかもしれない。イシュマエル、ナホル、ヨクタン、エサウの息子たちも、それぞれ12人列挙されている(創世記25章13-16節、22章20-24節、10章26-29節、36章10-14節)。
12(時に6)の部族で1つの部族連合を構成する習慣は、地中海東部から小アジアにかけて、後期青銅器時代に広く行われた。この連合体を、ギリシャ人は「周囲に居住する」という意味の「アンフィクティオン」という名称で呼んだ。イスラエルの12部族を1つにまとめたのは、共通の祖先ではなく、特定の聖所に対する共通の信仰であったかもしれない。19世紀と20世紀の聖書文献学者の多くは、同一の祖先ヤコブから民族が出発したという解釈をしりぞけ、この時代に県立されたイスラエルの聖所を中心とアンフィクティオニーとして、血のつながりがなく起源の異なる部族が連合を形成したのだという説をとった。しかしカナンの地に移り住んだこれら西セム系の各部族は、確かに同じ起源をもち、互いに近い関係にあったのである。彼らは記憶と伝統と、崇敬する祖先を共にしていた。聖書に出てくる部族すべての歴史をいちいち解き明かすのは、たとえ資料が存在していたとしても、複雑すぎてほとんど不可能に近いだろう。
しかし注目すべきは、ヤコブ、すなわちイスラエルの名と、イスラエル人が初めて共通の民族的自覚を抱いた時点とが関連づけられており、しかもそれが古代から連綿と続いてきた部族の伝統としきたりの枠組みの中で起こったという事実である。ユダヤ史全体を通して見られると同様、すでに宗教的家族的絆は強く、切っても切れないものとなっていた。ヤコブの時代、人々は依然それぞれの家の神々を携え崇めていたが、すでに一人の民族神という観念を受け入れるのも可能になりつつあった。
アブラハムは自分自身の信仰をもっていたけれども、「よそ者」そして「寄留者」として、一般に「エル」と呼ばれる土地の神々に敬意を表している。エルサレムではエル・リヨン(いと高き神)に10分の1を税を払い、ヘブロンではエル・シャダイ(全能の神)、そしてベエル・シュバではエル・オーラム(永遠の神)を崇めているのである(創世記14章18-20節、17章1節、21章33節)。ヤコブイスラエル(イスラ・エル)という名前を名乗るようになったとき、アブラハムの神はカナンの地に定着し、ヤコブの子孫すなわちイスラエル人の礼拝の対象として確固たる地位を占める。そしてこの神はまもなく、唯一の神、全能のヤハウェとして現れるのである。
ヤハウェの絶対性は、イスラエル人たちの宗教の核心をなしている。それは今日すべてのユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒が等しく崇める、唯一の神の原型である。この神の権威は、民族の歴史の次の段階、すなわち4エジプトへの移住とその地での苦役からの劇的な脱出を通じて、しだいに確固としたものとなっていく。
創世記がヨセフの詩をもってひとまず終わると、聖書は次にエジプトで艱難辛苦(かんなんしんく)に出会うイスラエル人の描写でもって、出エジプト記の物語を始める。この記述の流れを追うと、イスラエルの民すべてがエジプトへ移住したような印象を受けるがそれは歴史的事実と異なる。すでにヤコブの時代、今後イスラエル人と呼ぶべきハビルないしはヘブライ人がカナンの地に永住し始め、武力による領土の獲得さえ開始していたことがはっきりしている。創世記34章には、ヤコブの息子シメオンとレビがシケム(現在の町ナブルスの近くにあった)の領主とその町を微力によって首尾よく強襲した様子が描かれている。この事件はイスラエル人が祀った最古の場所であったかもしれない。
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実際今日わかっている限りにおいて、イスラエル人すなわちヘブライ人たちは、エジプトで苦役に服している間すっとシケムを支配しつづけていた。聖書の中にヨシュアが征服によってシケムを取ったという記述は見当たらないが、イスラエル人の侵入者たちはエルサレムの北に連なる丘陵地帯に達するやいなや、アブラハムが最初に儀式を行ったのと同じ場所シケムで、契約の儀式を執り行った、あるいは再び執り行ったのである(ヨシュア記8章30-35節)。
この事実はシケムがすでに長い年月、共通の神を崇め、人種的にも近いと彼ら自身が考える人々の手にあったことを示している。シケムはこうしてある意味で、カナンの地にイスラエル人が最初に建てた中央聖所であり、首都でもあった。この点は重要である。なぜならアブラハムの到着の到着に始まってエジプトからの帰還にいたる長い年月の間、かなりの数のイスラエル人がパレスチナに途切れることなく住み続けていた事実によって、同胞の一部だけが参加した出来事を描く出エジプト記の物語とヨシュア記で語られる征服の物語の信憑性が、一層高まるからである。エジプトのイスラエル人たちは帰るべき故郷があることを、そして故郷の住民の中に味方として十分期待できる人々がいることを、常によく理解していた。この地に内応者が存在することによって、エジプトを出たさまよえる民は、カナン征服の試みにはほのかな希望を抱けたのである。