じじぃの「神話伝説_87_ノア契約(旧約聖書)」

Top 10 (Failed) Proofs the Bible is True: Third Proof, "The Expanding Universe" 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9wbv_i-i9Ws
ノア契約
神様が全人類代表の「ノアと彼の息子達」と結ばれた契約。アダムの子孫はノアの家族以外はすべて洪水で滅んだので、アダム契約はノアの家族を通して全人類に継承され、新たにノア契約も結ばれる。ノア契約は無条件契約。
http://jspiritministries.com/Seishokaishaku/jidaikubuntokeiyaku/Noacovenant.html
『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』 石田友雄/著 草思社 2004年発行
約束の虹 (一部抜粋しています)
大地のリズムを狂わすような大洪水は二度と起こさない、とヤハウェが「独り言」したから、人間と自然界の存続は保証されている、というのがヤハウィストの説明だった。しかし、祭司文書の著者はこれでは満足できなかった。地上の全生命の存続が保証されていることを確認するために、ノア(人類)とその他すべての生きものに、神が一方的に「契約」してくれることが必要だ、と考えたのである。これを「ノア契約」と呼ぶ。
ところが、祭司文書の著者には、それでもまだ不十分だった。念には念を入れて「ノア契約」を忘れないためである。
 「そこで神は言った。
 『これは、わたしがわたしとお前たちの間、
 またお前たちと共にいるすべての生きものの間に
 永遠の世代にわたって与えた契約の徴だ。
 わたしの虹を雲の中にわたしは置いた。
 それはわたしと地の間の徴になるだろう。
 わたしが地上に雲を見せるとき
 虹が雲の中に現れる。
 そこでわたしは、わたしとお前たちの間、
 またすべての肉であるすべての生きものの間の
 わたしの契約を思い出すだろう。
 そしてもはや再び起こらないだろう、
 すべての肉を滅ぼす大洪水の水は。
 虹が雲の中に起こるとき
 わたしはそれを見て
 神と地上のすべての肉であるすべての生きものの間の
 永遠の契約を思い出すだろう』」(9章12節〜16節)
このように「ノア契約」は、絶対に再び大洪水を起こさないことを保証した神が、万一忘れても虹を見れば思い出す「永遠の契約」になったのである。
これほど念が入った保証を紙が約束した「ノア契約」は、紀元前6世紀のバビロン捕囚後に、祭司文書独自の洪水物語を種々の資料を編集して著作したユダヤ人の創作であろう。それは、歴史の転換点ごとに、神が「契約」を立てて民族史を方向づけてきた記憶に基づく推論であった。
すなわち、第1の転換点は、族長アブラハムが選民の先祖になる約束を受けたときで、このとき、神はアブラハムと「アブラハム契約」を結んだ。第2の転換点は、モーセを通して古代イスラエル人を選民に選んだ神が、選民の生活を定める律法を授与したときで、この神がモーセと結んだ契約を「シナイ契約」と呼ぶ。その後、神はダビデに、ダビデ家の子孫がエルサレムで選民イスラエルユダヤ人)を永遠に支配する王権を約束した。これを「ダビデ契約」と呼ぶ。これらの歴史的な契約から類推して、大洪水後の世界の再出発にあたり、全人類と全生物の永続を約束する契約が、神とノアの間に結ばれたはずだという確信から、「ノア契約」は創作されたのである。
バビロン捕囚から約500年後、ヘレニズム時代に、自分たちが歴史の転換点に立っていると自覚した一部のユダヤ人が現れた。初代キリスト教徒である。彼らは「アブラハム契約」と「ダビデ契約」に基づいて、ナザレのイエスが世界の終末に現われるメシア(キリスト)であると信じ、彼が立てた「新しい契約」のゆえに、選民ユダヤ人の律法を定めた「シナイ契約」は「旧い契約」になってしまったと主張した。それは、イエス・キリストが立てた「新しい契約」は、かつてアブラハムダビデに約束された約束の成就であり、モーセが受けた「シナイ契約」の超克を意味するという主張である。
この主張にしたがって、その後、キリスト教徒は自分たちの著作を「新約聖書」、ユダヤ人から継承した聖典を「旧約聖書」と呼ぶようになった。
ナザレのイエスに関する認識の相違は別として、このような、聖書の宗教文化史を根底で支えている世界観は、神の「善意」によってこの宇宙は維持され、運行されているという楽観論である。ヤハウィストのように、その理由はわからないと言っても、祭司文書のように、神が約束(契約)したからと説明しても、結局、同じ楽観論に到達する。
他方、バビロニア人には、気まぐれな自然がなにを考えているのかわからなかった。まして自然に「善意」があるとは、到底考えられなかった。科学的に宇宙を理解している現代人には、当然、バビロニア人の認識のほうに同感するだろう。しかし、「善意」なしで宇宙が運行されているなら、人間の命も、気まぐれな自然現象の一部にすぎないことになる。ではなぜ人命の尊厳は守らなければならないのだろうか。
これは、すでに「創世記」冒頭の天地創造物語を読んだときに提出した疑問である。洪水物語はその続きだから、同じ疑問が起きて当然だろう。ただ「創世記」を9章まで読み進めてきて、わたしたちは、今、天地創造物語を読み始めたときより、この疑問に解答を考えるために、はるか多くの材料をもっているのではないだろうか。
誤解してはならないことは、人間を生かすことを神が「約束」した、あるいは、神は人間い「善意」を抱いている、という聖書の楽観論は、平和と繁栄を享受していた人々の世界観ではないことである。ノアの洪水の物語によれば、ノアとその家族以外の全人類が全滅したカタストロフを経てはじめて神の「善意」と「約束」が確認されたのである。実際、その後、選民の歴史を通して、同じような経験が繰り返された。たとえば、民族絶滅の危機であったバビロン捕囚を生き抜いたユダヤ人が、祭司文書の「ノア契約」を創作したのである。
このように、聖書の楽観論は、逆境の中で選民が、それは「本当なのか」と問い続けてきた世界観である。