じじぃの「人の死にざま_614_榎本・武揚」

榎本武揚 - あのひと検索 SPYSEE
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函館戦争(五稜郭) 動画 YouTube
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和魂洋才の人・榎本武揚
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榎本武揚 ウィキペディアWikipedia) より
榎本武揚は、江戸幕末〜明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。
【生涯】
江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。
文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までオランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。このとき総裁であった矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。
新政府軍が江戸城無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。途中暴風により清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。新選組奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館五稜郭に拠り、所謂「蝦夷共和国」を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となった。
明治2年(1869年)、「開陽」の座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、江戸辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的であった福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福沢は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されたが、一瞥した福沢は、その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。
【瘠我慢の説】
「瘠我慢の説」(やせがまんのせつ)は、福澤諭吉の著書のひとつ。1891年(明治24年)11月27日に脱稿され、1901年(明治34年)1月1日の時事新報紙上に掲載された。さらに、1901年(明治34年)5月に『丁丑公論』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。
特徴
本書の特徴は勝海舟榎本武揚に対する個人攻撃であるところにある。石河の序文によると、もともと公にする予定は無く、親しい人々の間に写本を渡していたものであったが、写本が流出したため、石河の要望により時事新報紙上に掲載されることになったのである。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
榎本武揚(えのもとたけあき) (1836-1908) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治41年7月13日発病し、10月26日、向島自邸で死亡した。近代、これだけの人物にして、病名不明。しかし彼は江戸ッ子の代表のごとく目され、その葬式は江戸ッ子葬ともいうべき景観を呈したという。
鴎外の日記「30日(金)午後榎本子武揚の葬を送りて駒込吉祥寺に至る」
榎本は、明治の最良官僚としての働きをしたが、しかし与えられたのはついに伴食(ばんしょく)大臣であり、また子爵に過ぎなかった。
がんじがらめの薩長閥の中で、前政権の残党というハンディキャップを認めてやっても、彼が日本の近代化に貢献した業績は、果たして彼が生きのびたにふさわしいものであったか、どうか。彼が誇った幕末の留学体験は、新政府以来おびただしいハイカラが生まれたせいもあって、それほど役にたたなかったのである。
それより、オランダ帰りのこの海将が、義と侠の旗の下に、五稜郭で、33歳で壮烈な死をとげていたら、あるいは彼こそ、維新の嵐における最大のヒーローとなり、それどころか永遠に日本人を鼓舞する幾人かの叙事詩的英雄の一人として残ったのではあるまいか。
福沢の「瘠我慢の説」は、あながちまとはずれでもなかったのである。
しかし、おそらく彼は最後まで、ほんのちょっとしたゆきちがいで、自分の一大スポークスマンとなってくれたかもしれない福沢諭吉という人間を敵にまわしてしまった愚に気がつかなかったのかもしれない。

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