じじぃの「人の死にざま_1591_金・玉均(朝鮮の政治家)」

第8週1話脱亜論から〜福沢諭吉朝鮮人を見捨てたワケ【CGS倉山満】 動画 YouTube
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金玉均

金玉均 ウィキペディアWikipedia) より
金 玉均(キム・オッキュン、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン)、号に古愚(コウ)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた。
忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格。朴珪寿、呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾興亜会に寄食する。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。
脱亜論 ウィキペディアWikipedia) より
『脱亜論』は、新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説である。1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録され、また「時事」を興したのが福沢諭吉だったため、以来福澤が執筆したと考えられるようになった。
1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に言及した文献は発見されていない。発見されている最初の文献は翌1951年(昭和26年)11月に歴史家の遠山茂樹が発表した「日清戦争福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代後半である。

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『韓国人に教えたい 日本と韓国の本当の歴史』 黄文雄/著 徳間書店 2013年発行
日韓をめぐる歴史のウソと真実 (一部抜粋しています)
長らく清朝と宗属関係を続けてきた朝鮮でしたが、19世紀になるとその関係が変化していきます。きっかけとなったのは、西欧列強が東アジアに進出してきたことです。
1840年にはアヘン戦争が起こり、清朝がイギリスに敗北しました。また、53年には日本にペリーがアメリカ大統領の親書を携えて来航し、開国を迫っています。
そうした東アジア情勢の変化から、日本では討幕運動が起こり、1868年、明治政府が誕生します。これが明治維新です。
先に述べた、明治政府の親書が朝鮮に受け取りを拒否されるという「書契問題」が起きたのも、この年です。
しかも、李氏朝鮮はこの頃、極端な排外主義政策を取っていました。1863年、高宗が国王に即位しましたが、11歳とまだ幼かったため、父親の大院君が権力を握りました。この大院君は、徹底的な攘夷を行います。
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さて、自らの暴政を暴かれ失脚していた大院君ですが、1882年7月、閔氏一族に不満を持つ大院君や旧式軍隊とともにクーデターを起こして宮中になだれ込み、閔氏一族を掃討して権力を奪還します。これを壬午(じんご)事変といいます。
このとき、日本人の公使館も襲われ、日本人が殺されています。
なんとか難を逃れた閔妃(高宗の妻)らは、朝鮮に駐屯したいた清朝の北洋大臣代理・袁世凱に大院君の横暴を告発します。そこで、清は宗主国の権威を示すべく、大院君をソウルにあった清進駐軍の陣地に呼び出しました。そして、宴会に見せかけて大院君をおびき出し、これを捕えて天津に強制連行します。これは朝鮮の国王を守るためではなく、冊封秩序の維持のためでした。朝鮮国王の進退を決めるのは清であり、大院君ごときが国権を握るのは許せないと判断されたのです。
朝鮮半島を管理・監督するのは清の礼部の役割でしたが、この頃はその権限が北洋大臣の李鴻章に移されていました。実際に朝鮮国王の代理・監国の立場にあったのが、李の側近で、わずか23歳の袁世凱だったのです。
李鴻章は清の権臣でしたが、漢人であるため、到底では「家奴」扱いです。その部下である袁世凱は一軍人にすぎなかったものの、朝鮮での立場は国王より上でした。
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この頃、何かにつけ干渉してくる清朝への反発を強めていたのが、朝鮮の改革派、独立派です。彼らは、権力争いに明け暮れて政治を混乱させている大院君や閔妃を目の当たりにして、このままでは朝鮮の近代化は不可能だと考え、日本に接近してきました。
その結果起きたのが、1884年の「甲甲(カブシン)政変」です。これは、朝鮮半島の遅れた現状に不満を持つ改革派・独立派が起こしたクーデターでした。
金玉均(キム オッキュン)、朴泳孝(パク ヨンヒョ)などの朝鮮人が立ち上がり、改革と清朝からの独立を主張し、国王の高宗を擁立して、当時の朝鮮王朝を牛耳っていた閔妃一族の排除に立ち上がりました。
この改革派の人物に対しては、日本の福澤諭吉後藤象二郎などが支援をしていました。また、クーデター時には、国王を守るために日本の警備兵が王宮に配備されました。
しかし、いざ決起すると、袁世凱率いる清軍がまたもや介入し、クーデターは3日で壊滅しました。クーデターに加担していた者たちは、ことごとく捕まり、残虐な方法で処刑されたのです。
また、リーダーの金玉均は亡命したものの、後に暗殺されて、その死体はバラバラに引き裂かれて朝鮮各地にばらまかれました。
清軍は王宮の日本軍や日本公使館も攻撃しました。この衝突により、日本が考えていた、清とともに朝鮮を近代化し、欧米列強に対抗しようと目論見は暗礁に乗り上げてしまいます。
改革の頓挫と、清朝や朝鮮の前近代化な残酷な処刑を知った福澤諭吉は、もはや両国の近代化は無理だと感じ、有名な「脱亜論」を説いたのです。