じじぃの「歴史・思想_146_韓国・堕落の歴史・大清皇帝功徳碑」

三田渡碑


李氏朝鮮は「何」から独立したのか? ── 「独立門」に見る韓国の歴史歪曲

ソウル特別市松坡区石村洞 ── 通称「三田渡(サムジョンド)」に、とある一つの意味深な記念碑が残されています。
その名を『大清皇帝功徳碑(テチョン-ハンジェ-コンドッビ)』(建立地に因んで「三田渡碑(サムジョンドビ)」共呼ばれている。以下、『三田渡碑』と略)と言います。(右写真上) この記念碑のレリーフ(右写真下)をよく見ると、奥の最上段に座す人物に対して、中央の人物が「土下座」している様が見て取れます。実は、中央の人物は当時の朝鮮国王・仁祖(インジョ)であり、奥の人物 ── 清朝皇帝アイシンギョロ=ホンタイジ(以下、「皇太極」と略)に対して、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」と呼ばれる、支那皇帝に対して臣下がとる最大級の礼法 ── 同時にさせられる者にとっては最大の恥辱でもある ── を以て「許しを請う」ている場面がレリーフとなっているのです。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/geionmon.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

「屈辱の碑(いしぶみ)が教えるもの」――こうして朝鮮は、すすんで清の属国になり下がった より

ソウル市内にいまも残る、屈辱の碑

今日、ソウル市松坡洞に「三田渡碑(サムジョンドビ)」という高さ5メートル70センチ、幅1メートル40センチの堂々とした石碑が立っている。私の家から歩いて11、2分のところにある。これは、朝鮮史を浮き彫りにする史蹟である。わたしたちは過ぎ去った歴史を真正面から見据えて、そこから教訓を学ばねばならない。失敗の歴史こそ、明日へ向けた活力とせねばならない。
これは清の太宗の頌徳碑(しょうとくひ)で、名称を「大清皇帝功徳碑」と言うが、韓国では「恥辱碑」として知られてきた。大韓民国の史蹟第101号に指定されている。
この碑は「丙子胡乱」の後、清の太宗が仁祖の降伏を認めたうえで、自らの功徳を記述したもので、表面の左側にはモンゴル語、右側には満語が刻まれ、裏面は漢文が用いられている。
清軍によって南漢山城を包囲された仁祖王がどうなったのか、「大清皇帝功徳碑」の文章を要約してみよう。
 「大清崇徳元年、冬一二月、寛温仁聖皇帝(豊かな恩恵と、神聖で思いやり深い清の大宗)は、朝鮮が紐帯(ちゅうたい)関係を破ったために大いに怒り、武力を行使して、東方(朝鮮)へ進撃した。国(朝鮮)内に入ったら、対抗する者はまったくなかった。
    ・
  寡君(仁祖)はやむをえず、文武諸臣を集めて、『私が至らなかったために、自ら天による懲罰を招来し、民百姓を死の間際に追いやった。その罪は、私一人にある。それにも関わらず、皇帝は自重され、屠戮(とりく、皆殺し)することを控えられた。このような有難い論旨に接し、慎みてその意を頂き、宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)と我が生霊を保全するほかない』。したがって、数十騎を先頭に立てて、清の軍営前に至り、罪を咎(とが)めるように請うた。ところが、 皇帝は礼を持って応対され、恩恵を持って慰労しながら、礼物(相手に敬意を表わすために贈る品物)を下賜(かし)された」
仁祖はこの時、それまで軽蔑していた胡服(こふく、北方の蛮夷の服)を着て、松坡の三田渡に設けられた「受降壇」において、屈辱的な降服を行った。「受降」とは、降伏を受け入れることである。
仁祖王は「受降壇」において、清の太宗に向かって9回、地面に頭をつけて、叩頭(こうとう)する拝礼を行なったうえで、清からの一方的な和約を結ばされた。1637年1月30日のことだった。

清の属国となった李氏朝鮮

「大清皇帝功徳碑」に戻って、要約を続けよう。

 「礼が終了すると、寡君を都城に帰らせて、撤収し、離散した百姓を慰め、農耕を勧奨した。人々が古巣に帰れたことは、すばらしい幸福であった。
  我らの小国が大国(清)に対して罪を犯してから久しい。
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  皇帝は大軍を率いて南漢山城を包囲し、江都(ソウル)をたちまち陥落させ、嬪宮(王の妾たち)、王子、大臣などの家族が皆捕虜となったが、高低は諸将に対し、危害を加えないように命じられ、侍従官員と内侍に眼を配るように求められた。このように恩恵を施したために、小国の君臣と捕虜であった家族達が、再び以前と同じく、冬が春に代わり、旱魃(かんばつ)が雨によって潤うように、その身を安んずることができた。国は滅亡の瀬戸際から救われ、宗廟社稷が崩壊から再生した。
  こうして東国(朝鮮)の数千里の国土が全て蘇る徳を蒙(こうむ)ったことは、 古代からの書籍にも稀にしか見られないことである。ああ、何と立派なことだろうか。
  三田渡の南側に、皇帝が駐蹕(ちゅうひつ、行幸中にとどまること)された所に、祭壇場がある。我が君は水部(工人)に命じて、祭壇を増築し、石を磨き、碑を立てて、永遠に遺して、皇帝の功徳が、天地調和するのと同じことであることを顕(あらわ)した。我々小国は、代代、末永くこの徳を仰ぐのみならず、 どのような国であっても服従しなければならない大国の仁義と、勇猛なる義理が、この根本になっていることを、 深く心に刻むものである(後略)」
仁祖は清の太宗に遜(へりくだ)り、皇帝に対して自らを臣を意味する「后(きさき)と呼んだ。
この日以降、李氏朝鮮は明に代わって、清の元号を用いるようになった。仁祖17年といった国王の在位年による数え方は、公式のものではなく、便宜的なものでしかない。元号1つとっても、日本が歴史を通じて自国の元号しか用いなかったのと較べると、韓民族がいかに不幸な歴史のなかを生きてきたのか、と長嘆息させられる。