じじぃの「人の死にざま_1446_静寛院宮」

皇女和宮(静寛院宮)

和宮親子内親王 ウィキペディアWikipedia)より
和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。明治天皇は甥にあたる。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂正室。品位は二品、薨後贈一品。
和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が勃発する。戦いに敗れた徳川慶喜は12日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻った。江戸城では軍議が開かれたものの、議論百出で結論は出なかった。大勢は主戦論に傾いていたが、既に朝廷への恭順の意を固めていた慶喜和宮に取り成しを頼んだ。

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『幕末史』 半藤一利/著 新潮文庫 2008年発行
徹底抗戦派の大落胆 (一部抜粋しています)
翌12日、慶喜江戸城へ上がります。大坂を出る時に身に着けた、フランスからもらった軍服のままで静寛院宮(和宮)に会おうとしましたら、静寛院宮が「洋服の慶喜には会う必要がない。ここは江戸城であり、しきたりを守らない者には会わない」というので、慶喜はわざわざ着物に着替えたそうです。そして顛末を語り、自分はこのまま謹慎し、恭順の意を表するつもりであると伝えます。つきましては宮様の力をもって朝廷側への謝罪の斡旋をお願いできませんか、とも言ったのではないでしょうか。慶喜32歳、歴史の表舞台から下りる時です。
おそらく静寛院宮はこの時、わかった、力を尽くすと約束したと思います。当時の静寛院宮の手紙が何通か残っていまして、そのうち橋本実梁に宛てた1通を全文で紹介します。味わって読んでみて下さい。実際は京都の公家さんですが、この時は東海道先鋒総督、つまり東海道を1番最初に進撃してくる先鋒の総督になっていました。この手紙を、堂々たる行列を作って持っていったのは土御門藤子という老女でした。
「この度の一件は兎も角も、慶喜是れ迄重々不行届の事故、慶喜一身は何様にも仰せ付けられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願いたく、後世まで、当家朝敵の汚名を残し儀事、私身に取り侯ては は実に残念に存じまいらせ候。何卒私への御憐愍と思しめされ、汚名を雪ぎ、家名相立ち候様、私身命にかへ願い上げまいらせ侯。ぜひぜひ官軍差し向けられ、御取りつぶしに相成り侯わば、私事も当家滅亡を見つつ、ながらへ居り候も残念に侯まま、急度(きっと)覚悟致し候所存に候。私一命は倍しみ申さず侯へども、朝敵と共に身命を捨て侯事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致し居り候。心中御憐み察せあらせられ、願の通り家名の処、御憐愍あらせられ候わば、私は申す迄もなく一門家僕の者共、深く朝恩を仰ぎ候事と存じまいらせ侯。なにとぞなにとぞこの処よくよく御申し入れ、お願い申し入れまいらせ候。なお同役衆へば、よろしく御申し伝え御取り計いの事、御頼み申し入れまいらせ候。以上。
      橋本少将殿へ                          静寛院」
これを見ますと、慶喜は今まで重々悪いことをしてきたのだから、身柄はどのようになってもいい、けれど徳川の家名だけは立ち行くようにお願いしますとのことです。ですから助命嘆願ではないんです。実は何通か残っているどの手紙を見ても、慶喜の助命嘆願はあえてしておりません。自分は徳川に入った女であり、それゆえ徳川家の家名だけを残してほしいと。手紙全体でもそのことを言っていて、慶喜が期待したほど静寛院宮は助命嘆願には意を介さなかったようです。最後の最後まで、慶喜の大奥での人気はさっぱりであったんです。