じじぃの「人の死にざま_606_真田・幸」

真田幸村 - あのひと検索 SPYSEE
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大坂夏の陣 激戦 動画 YouTube
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Letters From Iwo Jima, new theater trailer 硫黄島からの手紙 新予告編 動画 YouTube
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真田幸村〜城と古戦場〜
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真田信繁 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
真田信繁(さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で大活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめた。
江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
【生涯】
永禄10年(1567年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる信綱(幸隆)の頃に甲斐国武田晴信(信玄)に帰属し、信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は恭順し上野国岩櫃、沼田、信濃戸石の所領を安堵された。
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老徳川家康が同じく五大老の一人だった会津上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。
東軍は東海道中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の大軍勢を信州上田城に立て籠りて迎え撃った(第二次上田合戦)。少数精鋭である真田隊にてこずった徳川秀忠軍は落城攻略を諦めて去ったが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。秀忠軍が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度打って出て夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。
三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった。
蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)には信繁は出家、好白と名乗った。
翌慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に大打撃を与えて後退させた。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。
信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼淀殿母子は大坂城内で毛利勝永介錯により自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。しかしその後、大坂では信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われているが、さらに噂では薩摩の島津家領内に逃隠れし墓もあると言われている。さらに、子孫もあるという噂もある。

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歴史秘話ヒストリア 「激突!真田幸村VS.伊達政宗 〜めぐりあい大坂夏の陣〜」 2011年5月19日 NHKオンデマンド 動画あり
【語り】渡邊あゆみ
赤い鎧(よろい)の“徳川の天敵”真田幸村、黒い鎧の“独眼竜”伊達政宗。同年代の戦国武将が一度だけ直接対決したのが、徳川・豊臣の最終決戦「大坂夏の陣」でした。徳川方の一大勢力として大坂城に迫る政宗。決死の覚悟でこれに切り込む幸村。赤と黒の軍団が激突した決戦の行方は?幸村が政宗に託したものとは?命を賭けて美学を貫く幸村と国と民を守り抜く政宗、対照的な生き方をした二大英雄の戦いと絆(きずな)の物語です。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/29.html
文藝春秋 10月号 (2009年)
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利茨城大学准教授 磯田道史東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
知謀のひと (一部抜粋しています)
山内 司馬作品の登場人物としては、ちょっとマイナーな存在になりますが、「知謀の人」としては、真田昌幸、信幸(後に信之)、幸村の親子を挙げておきたい。 真田昌幸という人物は戦国きっての外交戦略家といっていいでしょう。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信に挟まれて、北信濃の小大名がいかに生きのびるか。それが徳川という巨大勢力がいよいよ全国統一を果たすという時代の節目を巧みに泳ぎわたり、強い存在感を発揮するわけです。
半藤 司馬作品でいえば、『関ヶ原』『城塞』などで欠かすことのできないバイ・プレーヤーといった感じで活躍します。兄の信幸は家康方の東軍に、弟の幸村は父・昌幸ともに西軍につく。どちらが買っても真田家が残るようにしたのです。 しかも、よく知られているように、昌幸、幸村親子はわずか3千500の兵で、3万8000の徳川秀忠上田城でさんざん打ち負かし、秀忠はとうとう関ヶ原の合戦に間に合わなかった。これだけの大軍を足止めした武功はきわめて大きいですよ。
山内 さらに特筆すべきは、信幸の政治的能力ですね。2代目将軍となった秀忠にしてみたら、策略家の揃った真田に対する猜疑心は凄いものがあったと思います。
水木 事実、徳川は信幸を信用していないから、上田から松代に転封させてしまいますね。
山内 そうそう。そのプレッシャーの中で信幸・幸村親子の助命を嘆願して成功させる。しかも、隠居後も、孫の代で起きた御家騒動の収拾のために、80過ぎて再び藩政を掌握する。幕府の陰謀をかわして真田家は幕末まで大名として生き残るのです。この信幸の知謀あふれる外交術、忍耐強い政治術は、現代に我々にも多くの知恵を与えてくれるのではないでしょうか。
磯田 まさに真田は戦国期の戦争外交術の頂点といえますね。それを支えていたのは、社会情勢や人的情報、地理・気象に精通し、名高い情報網を張り巡らせた真田の情報力のすさまじさでした。 私は真田の軍事的判断力、情報センスというものは後々まで受け継がれたのではないか、たとえば硫黄島での栗林忠道中称の戦いぶりとも無縁ではないと思うんです。栗林は松代真田藩士の家に生まれています。真田の武功話を聞いて育ったはずです。栗林の戦いぶりには小をもって大なる敵を制してきた真田戦術のエッセンスが感じられます。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
真田幸村(さなだゆきむら) (1567-1615) 48歳で死亡。 (一部抜粋しています)
元和元年5月7日、大阪城最後の戦いに、徳川方越前兵と死闘中、討死した。
「真田、思うほど闘い、馬より下り、床机(しょうぎ)に憩(いこ)うところに、越前の士西尾仁左衛門馳(は)かかって突かんとす。真田莞爾(かんじ)として、我は真田幸村なり。御辺の相手に不足なし。いまさら戦うべきにあらずと兜(かぶと)をぬぎて首をのべて討たる」(『銕醤塵芥抄』)
「真田は、5月7日の合戦にも、家康卿の御旗本さして一文字に打ち込む。家康卿のおん馬印臥(ふ)さすること、異国は知らず日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり、真田備えおる侍を一人も残らず討死させるなり。・・・・」(『山下秘録』)

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真田幸村 Google 検索
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