じじぃの「人の死にざま_1431_徳川・綱吉」

徳川綱吉

「生類憐れみの令」 犬の像

徳川綱吉 ウィキペディアWikipedia)より
徳川 綱吉(とくがわ つなよし、1646年2月23日 - 1709年2月19日)は、江戸幕府の第5代将軍である。
貞享元年(1684年)、堀田正俊若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。
この頃から有名な生類憐れみの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。

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『学校では教えてくれない日本史の授業』 井沢元彦/著 PHP文庫 2013年発行徳川綱吉は天才的な政治家だ (一部抜粋しています)
実は家康という人は、あまりそういう印象がないかもしれませんが、信長同様独裁者タイプの政治家です。今風の言葉を使えばトップダウン型です。
彼は織田信長の弟分なので、長年、信長の政治を見てきました。そのためなのか、とても賢い後継者選びをしています。彼が選んだ後継者・秀忠は、実は家康の息子の中ではもっとも戦(いくさ)下手のおとなしい人物でした。
家康は、そのおとなしい秀忠に将軍職を譲るときに、このようなことを言っています。
「お前は、自分でいろいろ決めなくていい。5人の年寄(後の老中)が一致して決めたら、黙ってハンコを押せ」
家康は、自分のようなタイプの主君は、天下を取るまではいいが、天下を取って世の中が安定したら、トップに就くのは、あまり自己主張せず、みんなの意見に「じゃあ、僕もそれでいい」と言えるようなタイプの人間の力が組織を長く維持するためにはいい、と見抜いていたのです。だから、敢えて自分とはタイプの違う、秀忠を後継ぎにしたのです。
家康もまた、日本人の気質を見抜いていたのです。
秀忠のように、もともとおとなしいタイプの人はいいのですが、15代も将軍がいると、なかには独断専行型の将軍も出てきます。そのなかで私がこの人は天才だと思っているのが、実は5代将軍・徳川綱吉なのです。
彼は紛(まぎ)れもなく独断専行型です。それを単に押し出したのでは、日本では決してうまくいきません。
綱吉については、犬公方(いぬくぼう)と多くの人がバカにしますが、曲がりなりにもその「バカ」な政策を実行できたという意味では、彼はとても優秀な、それこそ天才的な政治家だと思います。よく考えてみてください。普通なら、綱吉が「こうしたい」と言っても、老中たちが話し合いによって阻止するので、そんな「バカ」な性先が通るはずがないのです。むしろ、あまりバカなことを言い出せば、「殿ご乱心」とばかりに閉じ込められてしまうかもしれないのです。
では、綱吉はどのようにして老中たちに自分の意見を聞かせたのでしょう。
実は、彼は将軍と老中の間に側用人(そばようにん)というクッションを設けるという発明をしたのです。
側用人というのは、今で言えば秘書官のようなものです。綱吉は、自分でこれを選び、そばに置いたのです。
それまでは、老中と将軍の間は直接やりとりが行われたので、「老中5人がみんなで話し合ってこう決めました。これは全員が一致した意見です」と上げてきたら、将軍は拒むことができませんでした。気に入らなくてもハンコを押すしかなかったのです。
ところが、側用人を設け、将軍への書類は側用人を通すように、と決めると、たとえそれが老中が全員一致の生き塩として上げてきたものであっても、「これでは将軍様は、ハンコを押されますまい」と、将軍の威光を笠に着て突き返すことができるようになるのです。もちろん将軍と側用人の間ではあらかじめ、こういう内容なら認めてもいいという話がついています。
何度も突き返されると、老中たちもバカではないので、側用人に「どうしたらお上はハンコを押してくれるんだ」とお伺いを立てるようになります。そうなったら、「ここをこうしていただければ、将軍様はご了解くださいます」と言うのです。この指示は将軍から出ているわけですから、将軍は自分の政治ができるようになるというわけです。
どうですか、話し合い絶対主義の中で、自分の思い通りの政治をするための発明としては天才的だと思いませんか。