じじぃの「人の死にざま_577_荻生・徂」

荻生徂徠 - あのひと検索 SPYSEE
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荻生徂徠論語徴』、韓国で初めて完訳(下)
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荻生徂徠
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm
荻生徂徠 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、徂徠と号した。本姓は物部氏。父は5代将軍徳川綱吉の侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。
【生涯】
江戸に生まれる。
元禄9年(1696年)、徂徠31歳のとき、5代将軍・徳川綱吉側近で幕府側用人川越藩主の柳沢吉保に抜擢され、川越藩で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍綱吉の知己も得ている。宝永6年(1709年)、徂徠44歳のとき、綱吉の死去、吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾けん園塾を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派を形成するに至る。
豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去。
【徂徠学の成立と経世思想】
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学を確立した。また、柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。
【赤穂事件と徂徠】
元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
荻生徂徠(おぎゅうそらい) (1666-1728) 62歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「先生は御学問以外、何が御趣味ですか」と訊かれて、
「何の趣味もない。ただ炒豆(いりまめ)をかじりながら古今の人物をコキ下ろすのが何よりの快事だナ」と答えた徂徠は、別号の物茂卿(ぶつもけい)と称し、江戸中期一世を風靡(ふうび)したいわゆる徂徠学派の総帥であり、かつ大変な豪傑であり自信家であった。
享保13年1月、病んでふたたび起つあたわざることを聞くや、将軍吉宗は特に下熱剤のウニコールを見舞いとして下賜した。
19日、大雪となった。臨終の徂徠は、「海内一流の人たる物茂卿、将(まさ)に終らんとす。天もためにこの世界をして銀ならしむるか」といって死んだ。

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荻生徂徠 Google 検索
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