じじぃの「人の死にざま_714_徳川・光」

徳川光圀 - あのひと検索 SPYSEE
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水戸黄門主題歌 あゝ人生に涙あり 幻の4番 動画 YouTube
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水戸光圀銅像その1 動画 YouTube
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徳川光圀 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
徳川光圀(とくがわみつくに、1628年7月11日-1701年1月14日)は、江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。水戸黄門としても知られる。
水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。

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『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか 【肖像画】が語る通説破りの日本史』 河合敦/著 光文社 2006年発行
徳川光圀 (一部抜粋しています)
私たちのいだく水戸黄門こと徳川光圀のイメージは、やはりテレビドラマの影響を大きく受けている。とくに初代黄門様役の東野英治郎さんの影響は絶大だと思う。だから徳川光圀と聞くと、格さんと助さんを連れたしわくちゃの好々爺(こうこうや)が浮かび上がってくるはず。
確かに、いくつも残る光圀の肖像画は、いずれも晩年の姿を描いている。しかしながら、その死後まもなく完成した光圀の伝記『桃源遺事(とうげんいじ)』には、次のような記述がある。
「威(い)あってしかも猛(たけ)からさる御生質なり、御色白く、御像高く、御肩ひろく御顔おもなかに、御額広くして、…(略)…御目ぶくろ長く、…(略)…御鼻柱とほりて高く、…(略)…若き御時は世上にて美男の聞こえあり」
このように、若いときの光圀は、色白で鼻筋のとおった世上まれにみる美男子だったというのである。本稿ではこのように、すでに出来上がってしまった水戸黄門徳川光圀)という人物の固定観念を大きく打ち破ろうと思っている。
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徳川光圀水戸藩2代目藩主だが、その彼が隠居したあと、本当に助さんと格さんと連れだって諸国を漫遊して歩いたと信じている方も多いだろう。だが、『水戸黄門漫遊説』という勧善懲悪の物語は、全くのフィクションなのである。本当の光圀は、じつをいえば関東地方からさえ出たことがない人なのだ。遠くても日光や鎌倉、熱海、勿来(なこそ)の席に足を伸ばしたくらいのものである。
ただし、助さんと格さんのモデルは、確かに実在する。佐々介三郎と安積覚(あさかかく)がそれである。しかし、いずれも学者であり、おそらく用心棒としては役に立たなかったはず。また、と格さんが印籠を出しながら「天下の副将軍水戸光圀なるぞ」という決めゼリフは非常に有名だが、じつは江戸幕府には、副将軍なんていう役職は存在していなかったのだ。
ではいったい、どのような経緯で水戸黄門の漫遊記が生まれることになったのだろうか。
意外なことにの漫遊記誕生の歴史は浅く、幕末から明治初期になって話の原型が形成され始めたといわれる。ヤジさんキタさんが東海道を漫遊する十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』が大ヒットしたので、それにならって水戸黄門俳人の松雪庵元起をお供につけ、各地を漫遊しながら諸大名の政治を視察していくというストーリーが形成されたらしい。ただ残念ながら、その話をつくった作者については不明である。
助さんと格さんがお供として登場してくるのは、さらに遅い。明治20年代の大阪の玉田玉智(たまだぎょくち)という講談師の口演にはじまるとも、明治37年の大阪の日本亭丸勝がつくったともいわれている。

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