会沢正志斎 『新論』
日本の危機を救う!『新論』会沢正志斎(国体.形勢.虜情.守禦.長計)水戸学の思想幕末の思想の最大の特色はその激しい危機意識にある。
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会沢正志斎 ウィキペディア(Wikipedia)
会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。
【生涯】
享和3年(1803年)、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。文政4年(1821年)には藩主・徳川治紀の諸公子の侍読(教育係)を命じられ、その中に後の9代藩主・斉昭もいた。文政6年(1823年)、進物番上座となる。文政7年(1824年)、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見した。その会見の様子を記した『暗夷問答』を著し、翌年に対策についての考察、いわゆる尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著して藩主・徳川斉脩に上呈したが、内容が過激であるという理由で公には出版されなかった。
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『あの戦争と日本人』 半藤一利 文春文庫 2011年発行
幕末史と日本人 (一部抜粋しています)
幕末・明治維新、太平洋戦争をよく見てまいりますと、国家が外圧に直面するときは、状況も人間のあり方も似ています。ましてハッキリしているのは、大きな断絶が目の前に近づくと、そこが日本人の特性というか、心情というか、往々にしてナショナリズムに行っちゃうんですよね。幕末のナショナリズムの源流となった大ベストセラーの本があります。水戸藩の会沢正志斎の有名な『新論』の冒頭の一部は、こういう調子です。
「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日の嗣世々宸極を御し、終古易らず、固(もと)より大地の元首にして万国の綱紀なり。(中略)しかるに今、西荒蛮夷、脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢て上国を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」
文政8年(1825)に刊行された著です。すでにイギリスはインドを征服し、中国に蝕手をのばしつつありました。日本でいえば、外国船にひんぴんと接触を求められ、幕府が業を煮やし、「異国船打ち払い」(無二念打払令)を諸藩に命じた年です。それが黒船来航でいよいよ現実化したとき、”西荒の蛮夷が神州を凌駕せんとする、何ぞ驕れるや”とした会沢の自己再確認と主張とが、日本人のほとんどのものたちに、電撃のような衝撃を与えたであろうことを想像するのはむつかしくはないでしょう。そして攘夷の精神を呼び覚まされるのは幕末の志士だけに限らないんです。幕末も太平洋戦争の直前も、日本全体が簡単に熱狂してしまった。
攘夷は当時の日本の国民的アイデンティティーなんですよ。中にはそれに染まらない勝海舟や大久保一翁まいたいに珍しいのもいますけど、そういう連中は「迷惑なことを言う奴」ということで、逆に命を狙われてしまうんですからね。
明治に入ってからはいつの間にか、情意の精神なんかどんどん消すほうへ向かって、文明開化となっていきました。では攘夷は近代日本人の精神のなかから消えちゃったのか。消えてなかったということが、太平洋戦争のときにわかるんですね。日本人尾心のなかを一尺も掘れば、いつだってたちまち攘夷の精神が芽を出しますよ。