平田篤胤著 「出定笑語」
出定笑語(しゅつじょうしょうご) コトバンク
平田篤胤著。4巻。文化8 (1811) 年成立。篤胤の仏教排撃論。富永仲基の『出定後語』,服部天游の『赤裸々』を読み,それを批判しながら仏教批判を発展させたもの。ほぼ,第1〜2巻が釈迦伝,第3巻が経典,第4巻が日本仏教の批判にあてられている。
http://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E5%AE%9A%E7%AC%91%E8%AA%9E
平田篤胤 ウィキペディア(Wikipedia)より
平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日) - 1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『日本の歴史を貫く柱』 副島隆彦/著 PHP文庫 2014年発行
現在につながる仏教と神道の対立 (一部抜粋しています)
江戸時代の末期の文化・文政年間(1804年 - 1830年)に、頼山陽と平田篤胤という2人のイデオローグが現れた。この2人の書いたわかりやすい漢文、それは日本人的な漢文であり、あるいは――擬古文というのか――で書かれた本だ。それを熱狂的に武士階級の人たちが読んだ。豪商・豪農層も読んだ。篤姫のようなインテリ女性も読んだ。そしてそれが幕末維新の思想的な原動力になった。
・
平田篤胤の『出定笑語(しゅつじょうしょうご)』もベストセラーになった。これらは今で言えば、政治的な過激なパンフレッドだと思う。これらの本はまさしく革命の本だ。たとえば、イギリス国王に反抗したアメリカ植民者(コロニスト)の反乱が独立戦争だったが、1776年にアメリカ独立革命を宣言した。その原動力になったトマス・ペインの『コモン・センス』(1776年刊)という政治パンフレットと同じ役割を日本で果たした。
私が第1章で書き足りなかったことは、当時の日本の雰囲気の大きな変化だ。別の面から見ると、どうやら幕末にはお坊様(僧侶たち)に対する激しい憎しみが日本国内に満ち溢れていたらしい。実は、お坊さんたちはひどく嫌われるようになっていた。今の国民が官僚(高級公務員)を嫌うこととよく似ている。この事実を日本の歴史家たちがだれもはっきりと書こうとしない。だから私が書く。これがやがて明治1、2年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)につながった。庶民層にまで儒学(朱子学)だけでなく仏教と仏僧への激しい憎しみの顕れがあったのだ。
・
本居宣長は医者であり、薬の調合をして患者に与えて、それで、「鈴屋(すずのや)」という屋号というか私塾を構えて、多くの弟子たちに慕われて立派な暮らしをしている。国学者である本居は、吉野山の北の方を越えて紀州藩の藩主に召されて和歌山まで講義(侍講)をしに行っている。
国学の立場は、儒学(朱子学)と仏教を「外国から来た思想だ。日本古来の思想ではない。日本人にはしっくり来ない」として批判した。民衆の間でも、お坊様に対する激しい憎しみが強まっていた。このことを理解することが非常に大事なことだ。本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」という歌は今でも大変な人気がある。紀州藩に行く途中に詠んだものだ。小林英雄は1977年に「本居宣長」を書いて、数年後に逝去した。
この本居宣長の弟子を自称した平田篤胤の『出定笑語』が、読書人階級の間で激烈に爆発的に読まれたのだ、と私はここまで再三書いてきた。その中心は仏教と儒教に対する激しい排撃、軽蔑、糾弾の思想である。