縄文人
2021年08月02日 KANAME
太古の昔、日本列島に存在した“縄文時代”と呼ばれる時代。
つい最近では、紀元前の遺跡としては初めてとなる国の特別史跡「三内丸山遺跡」(青森)をはじめとした「北海道・北東北の縄文遺跡群」(全17遺跡)が世界遺産に登録されたばかり。
ようやくその存在が、その価値が、再評価されだした… とみるべきか。
https://ameblo.jp/jyujyutsu2021/entry-12689472187.html
『AI vs.人間の近未来』
宮崎正弘/著 宝島社 2024年発行
第5章 日本の霊域 より
AIがペトログラフの謎を解読する日
和辻哲郎は『風土』(岩波文庫)において日本人の特質を羅別した。
「第1は国民としての存在を教団としての存在たらしめる宗教的信念である。貴さはまず第1に祭りごとを司る神において認められる」として「尊皇心」をあげた。
「第2に人間の隔(へだ)てなき結合の尊重である。和やかな心情、しめやかな情愛」は「人間の慈愛の尊重であり、他方において社会的正義の尊重になる」という。
第3の特徴は「戦闘的恬淡に根ざした貴さの尊重である。勇気は貴く美しく、怯懦(きょうだ)は賤しく穢(きたな)い」からだ。そのうえで和辻は「これらの三者が古代における主要な徳であったことは、神話や伝説を材料として立証されうる」と結語した。
和辻はこの起源を古墳時代に遡及するとしたが、古墳は3世紀からであって、縄文時代からの日本人の特質ではない。縄文遺跡にはウッズサークル(環状木柱列)やストーンサークル(環状石列)があった。まぎれもなく斎場である。とくに青森県の三内丸山遺跡に復元された物見櫓は、古代の天文台だろうと推定される。縄文人は航海をしていたから北斗七星の一の変化を読んでいたのだ。縄文人はこの物見櫓にのぼって太陽の浮き沈みを見た。月を観測し、その方角と時刻の変化を認識した。これが中世の宿曜秘法や陰陽師らの星座占いへと繋がっている。
古代人の信仰が歳月をかけて、やがて多くの神話が形成された。
祭祀(さいし)が重視され、祭壇がしつらえられて、集落に長(おさ)がうまれ、地域集落の連合に「王」が生まれ、それが「大王」となり、スメラミコトと呼ばれるのが天皇制の原点となる。
縄文以前、日本には4万年前から旧石器人が生活していた事実は近年の考古学の発達で客観的、科学的に証明された。それまで歴史学者が否定してきた旧石器時代の存在は北関東で「岩宿遺跡」が発見され裏付けられた。戦後の歴史学はかなりピント外れでイデオロギーが優先したため世界的水準から言えば、偏った解釈が横行していたのである。
ペトログラフ(古代文字)は国学者の平田篤胤が晩年に熱心に研究した。平田篤胤は本居頼長の「死後の門弟」を名乗り、その弟子は五百名をこえた。神代文字の研究にのめりこんだ篤胤は『神学日文伝』を残した。
AIがペトログラフを解読する日がちかいのではないか。山口県下関市彦島に、ペトログラフが彫り込まれた石碑がある。ペトロは岩、グラフは文字、文様の意味で、日本のペトログラフはシュメール文字に酷似しているというのが考古学者の言い分である。
解読すると、「日の神や大地の女神大気の神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王(日子王=古代彦島の王)が祈り奉った」と解釈できると彦島八幡宮の解説にある。
おそらく6500年まえにシュメールと縄文人の接触があった。シュメールの石碑のレプリカは東京池袋の古代オリエント博物館にあってたとえレプリカでも観察する度に不思議な霊感が湧き出でる。
また、インカ、マヤ、アステカ文明の遺跡から夥しい縄文土器(に酷似した土器類)が見つかっており、遠き古き昔、ベーリング海が陸と繋がっていた時代に縄文人と同世代人が中南米へ移住したという文化人類学の学説が有力になった。
考古学の発展が日本の歴史学を変えた。
夥しい古墳から発掘された祭器、神殿の建築様式から、あるいは古代の遺物を炭素測定などで観測する方法からも縄文時代中期には狩猟、漁撈ばかりか農作が普及し、縄文後期には稲作も本格化していた。稲作の起源が弥生時代、半島からもたらされたという従来説は覆った。
太陽信仰と農耕は天皇家の儀式の中枢にあり、現代でも五穀豊穣を祈る新嘗祭(にいなめさい)が厳かに開催される。縄文時代、集落の全員がお互いに助け合い、徹底的に面倒をみ合った。相互扶助のコミュニティができていた。
縄文集落の代表例、三内丸山遺跡では30人ほどの1つの屋根の下で一緒に暮らした竪穴住居が再現されている。その建築技術の見事さは誰もが舌を巻かされる。共同作業で分担し、木材の伐採、調達、運搬から資材の組み立て、藁葺(わらぶ)き屋根、部屋の中の祭壇つくりまで全員参加のコミュニティがあった。だからこそ祭りが尊重され、祭祀が恒常的に営まれ、精神の紐帯(ちゅうたい)が強固だった。この跡地に立つと縄文人の精神を全身にあびるような感覚になる。「AIなんかに負けるものか」と古代人が叫んでいるようだ。
春夏秋冬の季節に敏感であり、様々な作業を分担し合い、クリ拾い、小豆の栽培、狩猟、漁撈はチームを組んだ。各々の分担が決められ、女たちは機織り、料理、壺(つぼ)つくり、食糧貯蔵の準備、そして交易に出かける班も、丸太舟にのって遠く越後まで、あるいは徒歩で信州へ黒曜石や翡翠を求めて旅した。
土器をつくるベテランもいた。渡来人の土師(はじ)氏がやってくる以前である。
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じじぃの日記。