じじぃの「人の死にざま_1440_徳川斉昭」

黒船来航

徳川斉昭 ウィキペディアWikipedia)より
徳川 斉昭(とくがわ なりあき、1800年4月4日 - 1860年9月29日)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。
嘉永6年(1853年)6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している(うち1門が水戸の常磐神社に現存)。また、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、幕府に献上した。

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『幕末史』 半藤一利/著 新潮文庫 2008年発行
幕末のいちばん長い日 (一部抜粋しています)
幕府にペリーが来るという情報は入っていた。それが6回に及んでいたにもかかわらず、来たら困るから来ないんだと思い込もうとしていた。ですがやっぱり来てしまった。それでどうしようもなくなって、てんやわんやの大騒ぎになるわけです。
その時の筆頭老中が、福山藩(今の広島県です)11万石の阿部伊勢守正弘という、当時35歳の非常に頭のいい、世の中がよくわかっている人でした。明治の評論家、山路愛山が「善く人のいうことを聞いて、たとえ自分の意見と違うものでも、まずそのままにして、長所のみを使う器量をもっていた」と書いています。それくらい、幕末においてはたいへん優秀な方でした。しかも弘化3年(1846)といいますからペリーが来航する7年前、水戸の徳川斉昭への手紙にこんなふうに書いています。
「(世界情勢を見ると、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており)今や異国船撃攘の令を発しても必勝を期することはできぬ。もう勝てないのなら日本の恥辱となるだけである(鎖国だからといって敵がやってきた時、強硬に追い払おうとしても勝てないのなら、日本の恥になるだけである)。日本の小さな船では異国の船に対して抗戦することができないのみならず、第1に異国船によって江戸近海の通商を絶たれ、糧食欠乏におちいるのみである。よって堅牢な軍艦を製造し、海軍防備を厳にしなくてはならない。これが今日の急務である」
徳川斉昭は骨の髄までの攘夷論のかたまりです。この人をおいて攘夷論の中心人物はいないほどです。その人にこういった開明的な手紙を書く、開かれた頭をもった方だったわけです。にもかかわらず、彼もまた、起こっちゃ困ることは起きないと決めていたんですね。
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とにかく外国人はすべて捕まえて徹底的にぶち殺せ、そう命令しておけ。国内戦争なら勝てば土地も取れるし人民も捕虜にできるが、外国との戦であれば、せめて船と大砲を取ってしまえば少しは励みになるだろう、というのですから過激な攘夷論者です。ところが今回は、丁寧な報告を受けています。さすがの斉昭さんも相手が15センチの大砲を持っているのでとても武器のうえではかなわないと知り、
「今と相成り候ては、打払いをよきとばかりは申し兼ね候。宜しく衆儀を尽くして御決断あるべく候」と返事をしました。阿部さんは「しめた! 斉昭さんももはや外国船を追っ払うばかりがいいとは言っていないな、よし、皆してよく相談して方策を考えよう」と胸をおろしたのです。この時、2人して歌を詠んでいます。
 寝てはさめ覚めてはおもふ異国の ことうき船のよるべいかにと 正弘
 ――なんともかんとも憂鬱な外国船はいったいどうするつもりなんだろう。
 もののふの道しととのふものならば ねてもさめても何憂かるべし 斉昭
 ――侍たちが心を1つにして武士道でいけば大丈夫、憂鬱になることなんかないんだ。
両方とも下手ですねえ。でも歌の内容は元気です。そういうわけにもいかないだろうと阿部さんは思っていましたが。
この日はなぜか、米艦隊はひっそりしていて、これはもしかしてアメリカは納得して長崎へ行くんじゃないか、と日本人はまた楽観するのですが、調べてみたら日曜日で、日本と違ってアメリカはちゃんと日曜日は休むんですね。そうは問屋がおろさないわけです。