じじぃの「人の死にざま_574_佐久間・象山」

先人たちの底力 知恵泉 佐久間象山① 青木拡憲 川田裕美 二宮直輝 降幡浩樹 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vxVT3A1mRG8
佐久間象山先生生誕二百年記念馬上銅像建立式除幕式 [松代テレビ局] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TnI9ou558VY&feature=related
佐久間象山の教え子
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/sakuma.htm
先人たちの底力 知恵泉「幕末 孤高の挑戦者 佐久間象山 空気を読むな!」 2018年1月30日 NHK Eテレ
【司会】二宮直輝 【ゲスト】青木擴憲(大手紳士服専門店会長),川田裕美,降幡浩樹(真田宝物館学芸員
坂本龍馬吉田松陰の師匠、兵学者・佐久間象山は遠慮なし!幕府領に大砲を撃ち込む、松陰に密航をそそのかす…空気を読むな!空気を変えろ!変革の礎となった知恵に迫る。
坂本龍馬吉田松陰勝海舟…幕末の英雄たちが師と仰いだ男!真田家・信州松代藩兵学者、佐久間象山。ペリー来航前から、太平の日本で「空気を読まずに」西洋の脅威への対抗策を主張し、周りとぶつかってばかり。幕府に怒られても筋が通らなければ謝らない、吉田松陰に海外密航をそそのかす…大胆な象山の発想や行動が、やがて幕末・日本の変革を導く。「空気を読むな!空気を変えろ!」威風堂々に突っ走った象山の知恵に迫る。
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2018-01-30/31/16498/1494163/
佐久間象山 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 より
佐久間象山は、日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈正四位象山神社の祭神。
【生涯】
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶことになる。
象山は西洋兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。
これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて入洛し、慶喜公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手にかかり暗殺される。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
佐久間象山(さくましょうざん) (1811-1864) 54歳で死亡。 (一部抜粋しています)
元治元年7月11日、黒もじの肩衣(かたぎぬ)、もえぎ御せん平、馬乗袴(うまのりはかま)に騎射笠をかぶり、西洋鞍をおいた馬で従者4人をつれ、幕末の大スタイリスト佐久間象山は、みずから書いた開国の勅諭草案をふところにしのばせて、山階宮(やましなのみや)邸からの帰途、午後4時ごろ、今日三条上ル木屋町通りにさしかかったとき、突如現れた2人の刺客に襲われ、馬から斬り落とされ、乱撃されて殺された。
その日のうちに、三条大橋に斬奸(ざんかん)状の立札が立てられた。
「・・・・大逆無道天地に容れべからざる国賊につき、すなわち今日三条木屋町に於いて天誅を加えおわんぬ。ただし、斬首梟木(きょうぼく)にかくべきのところ、白昼、その儀も能わざるもの也。
 元治元年7月11日                  皇国忠義士」

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