じじぃの「歴史・思想_545_白人侵略・黒船来航」

黒船来航

坂本龍馬

ウィキペディアWikipedia) より
坂本 龍馬(天保6年11月15日 - 慶応3年11月15日)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、会社経営者。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)。
土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。
薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。
大政奉還成立の1ヵ月後に近江屋事件中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。

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『白人侵略 最後の獲物は日本』

三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行

第4章 日本蚕食 より

以上、記してきたように、15世紀から400年に及ぶ欧米列強の侵略政策で「南北アメリカ」「アフリカ」「インド」「西アジア」「中東」「清国」、タイを除く「東南アジア」が白人たちの手に落ちた。
その広さは地球の陸地面積の99.25パーセントにあたる。
もはや白人手つかずの地は「日本」と清国の属国である「朝鮮半島」「タイ」の0.75パーセントだけとなった。
この喰い残しの地に白人たちが一斉に襲いかかった。
最初に食指を伸ばしてきたのがロシアである。
アムール川を渡河して支那人を屠(ほふ)りながら清国領の浸食を始めた。
同時に間宮海峡に艦艇を放って、樺太蝦夷、千島を襲い、警固にあたっていた松前藩士を殺害し、略奪、島民の拉致を行うようになった。
「蒙古襲来」「宣教師の布教」に次ぐ「第3の国難」の始まりであった。
1853年にはペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に現れ、開国を要求してきた。
幕府はこの砲艦外交に屈して「日米和親条約」を結び、「長崎、下田、函館の3港の開港」の他、「海難事故の際の乗組員の救助」「必需品の供給」「領事駐在権(日本にいる外国人が罪を犯しても日本に裁判権はなく、本国の法によって裁かれる)」を約束させられた。
日本は鎖国を220年続けたうえに徳川幕府のもと戦争はなく、武器の進歩は止まったままであった。
その間、欧米列強は侵略と戦争を繰り返し、武器は著しく進歩していた。
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1856年、幕府を震撼させる知らせが、ヨーロッパからもたらされた。
クリミア戦争を戦っていたロシアが、交戦国であるオスマントルコ、イギリス、フランスとの講和の席に着き、国境線を開戦前に戻すことで合意して「パリ条約」を結んだというのである。
ロシアはクリミア戦争を収束させたことで、余った兵力をアジアに振り向けてくる恐れがあった。
このときのロシア皇帝はニコライ1世ではない。
ニコライ1世は、クリミア戦争でロシアの敗色が濃厚となった1855年3月に死亡し、跡を継いだ穏健派の嫡子アレクサンドル2世が、就任早々に講和を終結させたのである。
アレクサンドル2世は、ロシア国内の統治においても農奴を解放してろしあの近代化を図るなど善政を敷いた賢君であった。
しかし対外政策に関しては、歴代ロシア皇帝と何ら変わることはなかった。
1858年、幕閣が恐れた通り、アレクサンドル2世は米英仏蘭を誘い、幕府に対して貿易に関する通商条約の終結を迫った。
その内容は日本に「関税自主権(日本に輸入される品に日本が税をかける権利)」はなく「治外法権(在留外国人が罪を犯しても、日本の法律で裁けない」を呑まされるという屈辱的なものであった。
さらに、当時の国際社会での金・銀の交換比率が、金1グラムに対し銀15グラムであったにも拘らず、欧米列強は徳川幕府に対して「金1グラムを銀5グラムで交換する」という取り決めまで求めてきた。
この無茶苦茶な要求に対し、大老井伊直弼(なおすけ)は勅許(帝の許可)も得ずに勝手に終結してしまった。
そのため大量の金が国外に流出するようになり、外国人犯罪も増加した。
この弱腰外交に対し、直弼を糾弾する声が全国から湧き上がった。
相次ぐ批判に対し、直弼は自分の施策に反対した者を根こそぎ捕らえ、吉田松陰ら14にんを斬首、切腹磔刑(たっけい)に処し、前水戸藩徳川斉昭(なりあきら)ら20人を隠居、謹慎、永蟄居(えいちっきょ)させた(「安政の大獄」)。
1859年、日本国中が物情騒然となっているのをよそに、神奈川宿に到着したイギリス総領事ラザフォード・オールコックは、銃を携え赤い軍服をまとった兵士140人を従えて江戸の町を我が物顔でのし歩き、幕閣の制止を振り切って江戸城内にまで入ってしまった。
威圧すれば、有色人種は白人の足元にひれ伏すと侮ったのだろう。
ところが、当時の日本人は現代のように臆病ではなかった。
たちまち激昂した士族による外国人襲撃事件が多発するようになった。
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日本はインカ帝国ムガール帝国の二の舞を演じるところであった。
英仏の野望を挫(くじ)いたのが土佐の脱藩浪士坂本龍馬である。

龍馬は、白人国家に怯(ひる)むことなく立ち向かう薩長が手を結び、内乱を回避して新政権を樹立することが日本を白人国家の侵略から守る唯一の方法と考えた。

しかし尊王攘夷派の長州は、公武合体派の薩摩に「8月18日の政変」「禁門の変」と2度にわたって煮え湯を飲まされたため、薩摩を「薩賊」「薩奸」と呼んで憎悪するようになっていた。
薩摩と長州に手を組ませるなど実現不可能な馬鹿げた発想であった。
そこで龍馬は両藩を利で説き、幕府という共通の敵をつくることで薩長同盟を成立させようとした。
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日本国内は、北米やインド同様に、幕府を支援するフランスと薩長を後押しするイギリスの英仏代理戦争の様相を呈してきた。
ところが将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまった。
ここでも裏で糸を引いたのが龍馬であった。
土佐藩参政、後藤象二郎を説得して藩父山内容堂に建白書を書かせ、将軍慶喜大政奉還を進言したのである。
内乱を最小限に抑えて英仏に介入する隙を与えないためであった。
ただし龍馬は慶喜を新政府の要職に就けるつもりでいた。
ところが龍馬は京都見回り組みに暗殺されてしまう。
すると薩摩藩は龍馬の意に反して慶喜を排除し、新政府を樹立してしまった。
慶喜を新政府に入れれば、所領400万石を有する徳川が旧来通り最大勢力である続けることに恐れを抱いたからである。
さらに薩摩は「幕府の全領地を朝廷に返還せよ」と迫った。
この無理難題に旧幕府軍会津桑名藩士が激怒し、1868年1月27日(旧暦1月3日)、大阪城に移った慶喜の下(もと)、結集して「鳥羽伏見の戦い」となった。
兵力は薩長軍5千人に対して、旧幕府軍会津・桑名軍は1万5千人と圧倒的に優勢であった。
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この2藩の藩士の装備は、戦国時代の甲冑に火縄銃、新撰組の頼りは日本刀である。
そんな装備では型落ちしたとはいえ性能に勝るミニエー銃に太刀打ちできるわけもない。
おまけに1分間に200発連射できるガトリング砲を持ち出してきた新政府軍に薙(な)ぎ倒されて、3日間で壊滅してしまった。
新政府軍は江戸に上って5月3日(旧暦4月11日)に江戸城を開城させたあと、7月に旧幕府側に立った越後長岡藩、8月に会津藩、翌1869年5月には蝦夷まで逃げた旧幕府側の残党を五稜郭で降伏させて、1年半足らずで内乱を終息させた。
かろうじて英仏につけ入る隙を与えずに明治政府を樹立した日本は、国の近代化に邁進し、軍備増強に奔(はし)った。
その舵取りを担ったのが「馬関戦争」「薩英戦争」を戦った薩長の侍である。
英仏といえどもおいそれと日本に手を出せなくなった。
ところがこれで一件落着とはいかなかった。
イギリスに対馬から締め出されたロシアが朝鮮半島に迫ってきたのである。
アレクサンドル2世在位中のロシアの膨張が凄まじい。