じじぃの「人の死にざま_676_中島・三郎助」

中島三郎助 - あのひと検索 SPYSEE
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2015年1月25日 中島三郎助まつり 動画 YouTube
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中島三郎助祭
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中島三郎助 ウィキペディアWikipedia)より
中島三郎助(なかじまさぶろうすけ、文政4年1月25日(1821年2月27日)-明治2年5月16日(1869年6月25日))は、幕末期の幕臣。ペリー来航時の浦賀奉行所与力。蝦夷共和国箱館奉行並。諱は永胤。雅号は木鶏。喘息の持病があったという。
【生涯】
本国は美濃、生国は相模、文政4年(1821年)、浦賀奉行所与力中島清司の子として生まれる。若い頃より砲術に才能を見せ、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた。また俳諧、和歌を父より手ほどきを受けたと伝えられている。天保6年(1835年)、浦賀奉行与力見習として高五十俵で召し抱えられた。天保8年(1837年)、モリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。嘉永元年(1848年)、格別出精につき、五人扶持を加えられ、嘉永2年(1849年)、父の番代として浦賀奉行与力に召抱えられた。翌年、奉行所船庫の失火により、蒼隼丸をはじめとする軍船のほとんどが失われた事件では責任を問われ、押込となった。
嘉永6年6月(1853年7月)にペリー艦隊(黒船)が浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船した。その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。
ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。
安政2年(1855年)、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。「鵬翔丸」で帰府後、安政5年(1858年)に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられた。安政6年(1859年)、浦賀の長川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設、遣米使節随行する「咸臨丸」の修理を行った。万延元年(1860年)、軍艦操練所教授方頭取手伝出役に進んだが、病気のために文久元年(1862年)出役依願免、与力に戻った。
元治元年(1864年)に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの再び病気となり、慶応2年(1866年)出役依願免、同年末には与力の職も長男・中島恒太郎に譲った。慶応3年(1867年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁・榎本武揚らと行動を共にして同年8月19日(10月4日)に江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。箱館政権(蝦夷共和国)下では箱館奉行並を勤め、蝦夷地七重村開墾條約書には箱館奉行永井尚志と連名で署名している。戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦した。箱館市中が新政府軍に占領された後、軍議では降伏を説いたが、中島自身は千代ヶ岡陣屋で討死することを公言しており、五稜郭への撤退勧告も、新政府軍からの降伏勧告も拒否。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年5月16日(1869年6月25日)、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。享年49。

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歴史秘話ヒストリア 「世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助」 2011年7月6日 NHK
【番組案内】渡邊あゆみ
激動の幕末、数々の大事件になぜか関わる運命に見舞われた侍がいた。地方役人だった中島三郎助は、黒船来航で、偶然、最初にアメリカ側と接触! これをきっかけに人生が大きく変わっていく。日本初の洋式軍艦の建造、幕府海軍での出世、勝海舟桂小五郎土方歳三らとの交友…。幕末最後の戦い・箱館戦争では、武士として壮絶な戦いに! 数奇な運命のなか、筋を通して懸命に生きた“ラストサムライ”の知られざる生涯。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/94.html
東大教授・山内昌之 【幕末から学ぶ現在(いま)】 中島三郎助 2011.8.11 MSN産経ニュース
■新時代の先端に立つ「木鶏」
◆息子や部下と忠義貫く
福沢諭吉の「瘠我慢(やせがまん)の説」については連載98回目で触れた。福沢は新政府軍に降伏した榎本武揚(たけあき)を批判した文章で、250年の徳川恩顧に酬(むく)いるために「我等は我等の武士道に斃(たお)れんのみ」、榎本は降参したければするがよいと語った者がいたと紹介する。しかも、その中には「憤戦(ふんせん)止(とど)まらず、父子諸共(もろとも)に切死したる人もありしと云ふ」とも書いた。
この人物とは、蝦夷地(えぞち)政府の箱館(はこだて)奉行並を務め、戦争が始まると本陣前の千代ヶ岡陣屋の隊長として戦死した中島三郎助にほかならない。彼は、榎本による五稜郭への撤退命令も、新政府軍の降伏勧告のいずれも拒否して、榎本が降伏する前に長男の恒太郎、次男の英次郎、浦賀奉行所与力以来の部下だった柴田伸助とともに凄絶(せいぜつ)な死を遂げたのである。
榎本には彼なりの言い分もあるだろう。しかし、蝦夷地政府総裁が下僚や部下の生き死にを越えて降伏したのも事実なのだ。
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木戸はクールな人柄と思われがちだが、新政府高官になっても三郎助の恩義を忘れずに、未亡人など遺族のたつきについても心配したという。病没する1年前の明治9(1876)年、明治天皇に従って五稜郭に向かう折、中島父子の戦死地を通過した木戸は人目をはばからずに号泣したといわれる。
また、慶応3(1867)年に一緒に渡米した福沢諭吉が、幕府正使の不興を買って帰国後に謹慎させられたところ、福沢のために幕府要路に掛け合って処分を撤回させた。これは『福翁自伝』にも載っている話だ。福沢には「痩我慢の説」でそれとなく三郎助父子のために擁護の弁をはる根拠があったのである。
こうしてみると三郎助は、同じ箱館で散った土方歳三と違った意味で清冽(せいれつ)な印象を残した人物だったことが分かる。彼の霊を慰める函館と浦賀の人びとの歴史と人物を見る目の確かさには驚くほかない。「木鶏(もっけい)」(木彫りの鶏のように全く動じない最強の闘鶏)と号した三郎助のような人間が、いまの日本の政界にも欲しい。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110811/art11081107580004-n1.htm
中島三郎助 Google 検索
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