土方歳三 - あのひと検索 SPYSEE
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真実-The light lasting- 土方歳三【MAD】 動画 YouTube
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燃えよ剣 動画 デイリーモーション
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「あなたが選ぶ○○な人 〜歴史上の人物ベスト5〜」 2016年3月16日 NHK
【案内役】井上あさひ
▼好きな人ベスト5
①土方歳三
②織田信長
③伊達政宗
④石田三成
⑤毛利元就
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/277.html
土方歳三 ウィキペディア(Wikipedia)より
土方歳三は新選組副長、幕末期の幕臣。諱は義豊。雅号は豊玉。新選組鬼の副長として皆に恐れられた。戊辰戦争では幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮し、いわゆる「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任した。
【生涯】
天保6年(1835年)5月5日武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人・義諄と恵津の間に生まれる。
実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだと言われる。日野宿の佐藤彦五郎の道場に出稽古へ来ていた天然理心流4代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門した。
文久3年(1863年)8月18日の8月18日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。その後新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州土佐藩士が頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものであり、勇名も一気に天下に轟いた。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日に徳川慶喜が征夷大将軍を辞し大政奉還、12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した局長近藤勇の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の慶応元年頃から、これからは刀で戦ができない時代であると悟り、洋式の軍備を進め始める。
明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする。」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したと言う。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。
そして明治2年(1869年)5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わる。
燃えよ剣 ウィキペディア(Wikipedia)より
『燃えよ剣』は、司馬遼太郎の長編歴史小説。新選組副長土方歳三の生涯を描く。
1962年(昭和37年)11月から1964年(昭和39年)3月にかけ『週刊文春』に連載され、単行本は新潮社で上下巻にて刊行、現在は新潮文庫上下巻(改版2007年)で重版している。
同時期には『新選組血風録』『竜馬がゆく』など幕末を題材とした歴史小説も連載している。
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『文藝春秋』 2009年10月号
司馬遼太郎が愛した日本人 大座談会
【対談者】昭和史家・作家 半藤一利、茨城大学准教授 磯田道史、東京大学教授 山内昌之、作家 水木楊
・悲運の侍 (一部抜粋しています)
半藤 そこが運なんですねえ。榎本たちとともに五稜郭に立て籠ったメンバーの1人が、新撰組の土方歳三でした。ちょっと変なことを言い出すようですが、土方歳三と坂本竜馬、この2人を司馬さんは一対として考えていたのではないか、と思うのです。
山内 竜馬と土方? それは面白い組み合わせですね。
半藤 実は、司馬さんはこの2人をほとんど同じ時期に書いているんですよ。『燃えよ剣』を「週刊文春」に連載していた時期、「産経新聞」で書いていたのが『竜馬がゆく』でした。まず竜馬は質屋などを営む家で、土方は薬商人、ともに経済的には恵まれていたようですが、そもそもちゃんとした侍の家ではない。しかし、両者とも自ら剣術に励み、天下に知られるほどの剣の使い手となった。そして、どちらもそれまでの藩というシステムからは自由な、独自の組織を作り上げています。竜馬が亀山社中、海援隊を結成し、土方は新撰組という組織を実質的に組織していく。
山内 しかし、土方についてはやはり凄惨なイメージがつきまといますね。局中諸法度というきわめて厳しい規則を掲げて、粛清やリンチの連続だし、池田屋事件の際には土方自ら、近江出身の志士、古高俊太郎の足の甲に五寸釘を打ち、そこに蝋燭を立てるといった酸鼻きわまる拷問を行っている。
半藤 司馬さんも、新撰組について調べていると、「血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった」と述べていますね。それでも、藩という身分制度で硬直化した非高率な組織しかなかった江戸末期に、どうしてあれだけの「するどい機能性をもった組織」が出現したのかに興味を持った、と書いています。
山内 土方と竜馬で共通しているのは、1個の人間が引き受ける歴史の悲劇性ですね。土方は五稜郭で華々しく戦死し、竜馬も維新を前に暗殺される。それも司馬さんを惹きつけた要素でしょう。
半藤 また2人とも最後まで奇妙に明るいんですね。特に土方は敗走し、追い詰められれば追い詰められるほど明るく元気になっていく不思議な人物として描かれている。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
土方歳三(ひじかたとしぞう) (1835-1869) 34歳で死亡 (一部抜粋しています)
土方歳三は、勇が捕えられるとともに、窃(ひそ)かに流山を脱出し、会津に至り、更に箱崎に行って榎本武揚の幕下に参じ、陸軍奉行並となったが、武揚の人となりを察し、遂には官軍と和することを予知して極度に悲観し、合戦の度に、自ら危地に出動して死を希(こ)う風であったが、明治2年5月11日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。常に同僚に語って、
「ああ、吾輩は死に遅れた。若し我軍官兵と和する事あれば、地下に近藤と相見(まみ)ゆるを得ない」
と、いっていたという。
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土方歳三 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=e2VQTffBBo2wvgOL5NAo&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CC8QsAQwAA&q=%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1